みんなで育てる化学テロ

医局でたまたま硫化水素中毒のことが話題になって、「テロに使われたら怖いよね」なんて話してた。

よくよく考えたら、テロに使われる可能性は十分あって、実際問題、防ぎようもないのかなと考えた。

硫化水素のこと

硫化水素は、ホームセンターなんかで普通に手に入る薬が2種類あれば 簡単に合成できて、致死率も高い。去年ぐらいから、 それを使って自殺する人が報道されて、今年に入って件数が増えてる。

今のところはまだ、薬剤に対する規制は始まっていない。 これから先、たぶんまだまだ同じことする人が増えるはず。

今はまだ、あくまでも自殺の手段としか広まっていないけれど、 人が亡くなるぐらいに強力なガスを手軽に発生する手段は、 もちろん無差別に人を傷つける目的にだって転用できる。

硫化水素は空気より重くて、温泉街とか火山地帯では、 窪地にたまった硫化水素で中毒する事故なんかが起きてる。

誰か悪意を持った人が、東京駅のトイレなんかに薬品持ち込んで、 便器とか貯水タンクを使ってガスを発生させたら、結構大変なことになる。

何でも検索できる時代

ネットをちょっと検索すれば、手に入れるべき薬品の商品名とか、 用意すべき量、実際にガスを合成したときの「威力」みたいな情報は、いとも簡単に手に入る。

爆弾テロの昔。日本であれを実際にやった人たちが、何よりも大変だったのが、 「実験」だったのだそうだ。

昭和40年代、インターネットなんてなかった昔でも、「爆弾の作りかた」みたいな情報それ自体は 手に入れることが出来て、手に入る材料を使って、実際爆弾を作ることまでは出来たらしいのだけれど、 作ったそれが本当に爆発するのか、威力はどれぐらいなのか、音大きいから試せないし、 威力分からないから危なくてしょうがない。山奥で事故起こしたりとか、最初の頃は大変だったらしい。

硫化水素は、新聞をちょっとひっくり返すと「威力」に関する報道がたくさん引っ張れる。

  • 亡くなった人は、実際どれぐらいの薬品を用いていたのか
  • 致死濃度はどれぐらいで、ガスの蔓延を防ぐために、警察はどれぐらいの範囲で阻止線を作るのか
  • 阻止線の際では、ガスの濃度はどれぐらい拡散したのか
  • 一般家庭で硫化水素を合成したとして、どの範囲の人まで巻き込まれて、重症度はどの程度なのか

どういうわけだか、毎日新聞がこのへん異様に詳しく報道している。 そのまんま化学テロの教科書に使えそう。

ガスの濃度なんかは「ppm」単位で詳しく書かれていて、ガスの合成に用いた薬品量とピーク濃度、 阻止線半径だけ離れた場所でのガス濃度の数字さえあれば、 悪意を持った人が「これぐらいの被害を出したい」なんて考えたとき、 それを達成するのに必要な薬品の量は、そこそこ正確に計算できそう。

メディアが武器を育てる

硫化水素は、極めて低い濃度で強いにおいがするから、誰かを傷つけるための武器としては、 実際のところそんなに役に立たないはず。致死性は高いけれど、サリンみたいに 無味無臭のものとは違うから、いきなり高濃度のガスに暴露する状況でない限り、 事前に気がつくことは出来るし、ガスから逃れることも出来るはず。

その代わり、「実体として感覚可能なガス」というのは、無味無臭で致死率だけ 高いガスよりも、「パニックを引き起こす」効果に関しては、はるかに威力が高い。

サリンみたいな本物の毒ガスは、それを計測する手段がない人には 感覚できない。被害が大きかったり、あるいはまだ、全然大丈夫な状況で なかったとしても、警察サイドが安全宣言を出してしまえば、状況は「大丈夫」になるし、 パニックはそこで収まる。

硫化水素は、ごく低濃度でも刺激臭がする。知識としての「死ぬ可能性」は、 連日のようにメディアが報道してくれるし、「それを吸引して亡くなった人」もまた、 メディアを賑わす。硫化水素は本来、「においに気がつけば避けられる」気体だけれど、 そんな特徴もまた、「高濃度なら死ぬ可能性が高い」なんて知識が既知のものとして一人歩きしてしまうと、 「パニックを引き起こすための武器」として、極めて有利なものになってしまう。

硫化水素はだから、マスメディアが生み出した新世代の化学兵器だとも言える。 無差別に人を傷つけるために用いられたとして、実際に人的被害が出る可能性は 低いかもしれないけれど、空港とか地下街とか、人がたくさん集まる場所が、 一定期間閉鎖せざるを得ない状況さえ作り出せれば、効果としてはそれで十分だと思う。

みんなの意見は案外すごい

硫化水素って面白いよね」なんて言葉がミームとして一人歩き始めると、 相当おっかない。

いきなり「東京」はありえないだろうけれど、目立ちたい誰かが、田舎でいたずら半分に 硫化水素を合成してみるとか、地元のスーパーマーケットに刺激臭ばらまいてみるとか、 たぶん最初は、そんな「いたずら」で始まる。

見てる人は、きっと見てる。

どれぐらいの量を使えばパニックが起きるのか。そのとき警察官は、何人ぐらい動員されるのか。 警察サイドが「安全」と見込んだ阻止線は、どれぐらいの半径で作られるのか。わざわざ調べなくても、 毎日新聞見てれば分かる。

馬鹿が田舎で小さく試す。メディアがそれを詳細に報道する。誰かがそれを「学習」、「改良」して、また試す。 大きな被害が出て、メディアはもっと詳細に報道する。また誰かが「学習」する。 ミームは大きく成長して、きっとどこかで東京駅の地下街にたどり着く。

世の中にはたぶん、考えるけれど実行しない人と、実行したいけれど考えられない人とがいる。

誰もがネットワークにつながる現代、今はもしかしたら、両者がすごく近いところまで来ている。

2 種類の化学薬品混ぜるだけで、誰にでも簡単に致死的なガスを合成できるように、 2 種類の人間が、一定以内の距離に近づいたとき、「面白そう」なんてごく漠然とした動機さえあれば、 「有事」は自然発生する。

飛行機とか電車みたいなメディアの進歩で、人間同士の隔たり次数が 極端に小さくなって、感染症の拡散を押さえ込むのが難しくなった。

「誰もが作れる簡単な化学兵器」なんて考えかたもまた、複数の人を渡り歩いて力をつけて、 メディアがそれをばらまいて、何だか最近の感染症にちょっと似ている。

硫化水素を使った自殺が最初に報道されたのは、今からだいたい1 年ぐらい前。 この1年、報道は散発的だったみたいだけれど、「潜伏期間」を過ぎたのか、 今年に入ってから倍々ゲームで報道が増えて、今ではほとんど2日に1度は「硫化水素」の文字。

化学と生物だから、もちろん鳥インフルエンザと比べることなんて出来ないんだけれど、 「今そこにある危機」という意味では、きっと硫化水素は、鳥インフルエンザより怖い。

規制が始まる流れもないし、メディアの報道も詳しくなる一方。

鳥インフルエンザアウトブレイクしても、きっと毎日新聞なんかは、 火にガソリンぶち込むような報道連日続けて、大儲けするんだろうなとかちょっと思った。