自分の体験で話すと刺さる

誰かを説得するときには、「こうするのが正しい」をやってもうまくいかないけれど、 「僕は自分がかわいいからこうしているよ」みたいな言いかたをすると、伝わる印象を持っている。

教育したい人

同業者にも、愛想いい人と、愛想の対極みたいな外来対応をする人がいる。

愛想の対極に走る人も、別に患者さんが憎くてしょうがないとかじゃなくて、やっぱり「いい医者」 になりたいと願ってる。そういう人たちは、患者さんというものを、「教育」すべきものだと思っているから、 みんなその人たちなりのポリシーもって、厳しい外来をやっているみたい。

自分たちだって客商売だし、主治医に怒られるのが大好きな患者さんなんて、たぶん少ない。 愛想はないよりあったほうがよくて、少なくとも研修医のうちは、 「僕は将来厳しい外来をやる医者になるんだ」なんて考えてる奴は、たぶんいない。

研修期間を終えて、病院中から「先生」なんて呼ばれるのが当たり前になってくると、 人によっては、「教育」意識が芽生えてくる。こういうのを放置しておくと、 たいてい厳しい外来をやるようになって、「腕」がそれについてくればいいんだけれど、 そうでない医師は、たぶんどこかで地雷を踏んで、患者さんもろとも、人生を棒に振る。

価値観は伝わらない

身を守るためには、愛想はやっぱり大切だから、最初はたぶん、どこの病院も「愛想のいいサービスを」みたいな 教えかたをするはずなんだけれど、「それが正しい」みたいな価値は伝わりにくくて、 相も変わらず、愛想の対極みたいな外来対応する医師が、毎年一定数生産される。

こういうのは、厳しい外来をやる本人も、その頃には信念もって固まってるから、 「教育してあげるのが正しい医療」なんて思い込んでる若い人に、サービス業を説いても、 「こいつは汚れた欺瞞野郎だ」みたいなレッテル貼られて、無視される。

一番簡単なのは、フォーマットかけてから価値観上書きすることなんだろうけれど、 今の時代、クリーンインストールは怒られる。

「丁寧な応対した方がいいよ」なんて教えるときには、個人的にはだから、 すごく利己的な理由で、自分はこうしているよ、なんて言いかたをする。

「サービス」は、「患者さんのため」などではなくて、自分の身が世界で一番かわいいから、 かわいい自分の身を守りたいから、自分なりの結論として、こういう対応をして、 今のところ生き残っているよ、なんてやりかた。

「こう思っている自分」だけは否定できない

「患者さんは大切」という価値は、そう思う人と、もしかしたらそう思わない人がいる。

「これが患者さんのため」なんて価値は、もっと意見が割れる。

自分がかわいくない人は、たぶんうちの業界には、そもそも入ってこない。 だからこそ、「かわいい自分」という価値から話を始めると、研修医に「刺さる」気がする。

もしかしたらそんな態度は、密かに「こんな奴にだけはなりたくない」と思われてるのかもしれないけれど、 「教育」という営為は、受けたほうからのフィードバックが来ないから、どんなやりかたが正しいのか、全然見えない。

だからこういう考えかたもまた、あくまでも仮定でしかないのだけれど、 「自分はこういう立場で、こう考えて、こう振る舞っている」という言葉は、 その人の中で真実だけれど、「こうするのが正しい」を誰かに強要するのは、 なんというか、言葉のどこにも真実がない。

内的な真実が、ほかの誰かにとって再現可能であるかどうかは分からないけれど、 可能性としての真実が宿ってるぶん、「こうあるべき」を強要するよりも、 説得可能性が高いと思う。