技術文化と官僚主義

技術にはたぶん様々な立ち位置を持った文化があって、 属する文化圏が異なる技術者同士は、もしかしたら会話が成立しない。

文化の壁を乗り越えるには、「市場主義」と「官僚主義」、両極端のやりかたがある。 それぞれ欠点が指摘されるけれど、恐らくはたぶん、人情とか、チームワークみたいな 欺瞞ワードで文化を越えるやりかたよりも上手くいく。

NASA を築いた人と技術」という本の感想文。

マーシャル宇宙飛行センター

大戦後、ドイツからアメリカに渡ったフォン・ブラウンをはじめとする ドイツの技術者は、マーシャル宇宙センターでロケットの開発を続けた。

ロケット黎明期。まだ科学的に検証されていない、科学者が解答不可能な状況は たくさんあって、ドイツ人技術者は、そんな中でも「技術的推量」を行って、 即興的な判断を積み重ねて、新しい技術を作り出していったのだという。

月探査の計画が持ち上がって、今までに無い巨大なロケット「サターンⅤ型」の 計画がゴダード宇宙センターに持ちこまれたとき、プロジェクトを立ちあげた 空軍将校は、技術者が即興的に開発を続けるやりかたに批判的で、 科学的な、統計的な手法に基づいたリスクコントロールを主張した。

マーシャル宇宙センターの技術者は、「叩きあげ」の人が多くて、 技術屋同士の信頼とか、プライドみたいなものを積み重ねることで 機械の信頼性を保つやりかたを好んだ。テストにしても、まずは 「部分」が機能することを確かめて、「全体」を組むのは最後の最後。 統計学者がそんなやりかたを止めるよう進言しても、聞かなかったらしい。

実際問題、サターンロケットの開発現場では、統計学者が保証したやりかたが 失敗したり、統計学者が推奨したやりかたをフォン・ブラウンがひっくり返して、 結局そちらのほうが正しかったり。

技術というのは、まずは経験工学的なやりかたが先行して、それに科学が追いついて、 それで初めて、統計学者が成功可能性を論じることができるようになる。

技術黎明期、フォン・ブラウン達生粋の技術者のやりかたは、 もしかしたら統計学者のはるか先を行っていたけれど、 後年、アポロ計画が始まって、解決すべき問題が数を増していく中で、 組織にはだんだんと文書が増えて、今みたいな官僚的なやりかたが主流になった。

ジェット推進研究所

今でも火星を動き回っている「マーズエクスプローラー」を作ったジェット推進研究所は、 カリフォルニア工科大学直属の技術者集団。

大学技術者は複雑な技術、独創的な技術を好んで、信頼性に対しては、けっこういい加減だったらしい。 信頼性を確認するためのテストにしても、他の研究所はコンポーネントごとの試験を重ねて、 最後に全体を組んで動作確認を行うのに、ジェット推進研究所は、最初から全体を組んで、 それで動作すれば「それで良し」という方針。

ジェット推進研究所が請け負った月探査のプロジェクトが何回か失敗した頃、 技術の未踏性を追い求めて、信頼性を重視しないジェット推進研究所のやりかたは批判されて、 NASA 本拠地から、システム工学畑の人達が乗り込んできた。

ジェット推進研究所が作り出したプロダクトは不必要に複雑で、 「故障シナリオ」が多いといった問題を抱えていた。 生存確率を上げるために複数の装置を積んでいても、お互いが電気的につながっていて、 片方が故障すると「共倒れ」を引き起こすといった問題も指摘されて、 信頼性をあげるための、もっと「つまらない」やりかたを求められた。

マーズエクスプローラーを指揮した人の本を読むと、最近のジェット推進研究所の技術者は、 信頼性を追い求める、極めて官僚的なやりかたをする人たちみたいな描写が出てくる。 宇宙空間みたいな取り返しのつかない場所で信頼性を確保するために、技術者が長年研鑚を 積んできた結果が、今のようなやりかたなのだとも。

ゴダード宇宙センター

ゴダード宇宙センターは、科学者の集まり。NASAが管轄している他の研究所では、 研究所に一生を捧げる技術者が多いのに対して、ゴダード宇宙センターの科学者は、 ゴダードのことを通過点ととらえる人達が多かったのだという。

ゴダード宇宙センターは、「エクスプローラー」というごく小さな衛星をいくつも打ち上げて、 天文学に関する堅実なデータを取っていた。

ロケット技術がある程度進んで、NASA本拠地は、もっと大規模な「展望台」衛星プロジェクトを 提案したけれど、ゴダードの人達は、それに難色を示した。

科学者は本来保守的で、わが道を行く文化。大型で複雑なプロダクトよりも、 むしろ既製品を活用して、安価に、かつ個人的に物事を進めることを好んでいたらしい。 NASAが提案した大型衛星は、たしかにメリットも多いけれど、複雑で、失敗の可能性もあって、 何よりもお互い「相乗り」を必要とする部分が、科学者の振る舞いと相容れなかったのだという。

大型衛星の開発が難航する中、現場からは「もっとちっぽけな衛星を使わせてほしい」とか、 そもそも人工衛星は必要なくて、成層圏まで届くロケットだけで十分だとか。地味な意見。

衛星を打ち上げると、年の単位でデータを取らないと論文にならないから、 大学院生集まらなくて大変なんだとか。

文化の壁を乗り越えるやりかた

確実さ極める人達と、技術に芸術性を求める人達と、技術を単なる道具と考える人達と。 NASA というのはいろんな文化を内包する巨大な組織で、それをまとめるNASA 本拠地が、 ものすごく官僚的な組織として描写されるのは、何となく分かる気がする。

いろんな文化を取りまとめる共通言語というのは、結局のところ「お金」という市場文化でなければ、 杓子定規な、「よさ」とか「正しさ」も自ら定義する、規格化、官僚化したやりかた。

自分なんかが志向している「規格化された医療」で救急を回すやりかたは、 いろんな文化圏に属する患者さん達に対して、 官僚的な、マニュアルで作った態度をインターフェースとして押し出すことで、 文化の壁を越える試み。

恐らく対極にあるやりかたは、自由経済ルール。アメリカ流に、いつも笑顔で、 その代わり、笑顔で10万円請求するやりかた。お金を払える人には必ず親切を提供するけれど、 お金を支払わない人は、そもそも笑顔までたどりつけない。

この本の中ではもうひとつ、日本のロケット開発黎明期のことを取り上げている。

日本の技術者は、みんなチームワークで価値観を共有できたから、 ものすごく小さな組織であったにもかかわらず、極めて大きな成果をあげたなんて 賞賛してた。ロケット落ちてるのに。

「みんな同じ価値観」という村社会ルールは、やっぱりどこかで限界に突きあたるのだと思う。 上手に回ってた村社会というのは、本来どこかに「異物」を排除する装置が 実装されていて、「ムラ」の文化に乗っかれない人は排除される。排除機構のおかげで、 ムラの中では信頼コストを低くできたから、低いコストで大きな成果。

社会が大きく、あるいは、「きれいに」なっていく中で、たぶんそうした排除装置は 機能できなくなった。

ムラ社会ルールの中で、「チームワーク」とか「平等」なんて状態を 維持してきたのは、異物の排除機構。異物を排除した「結果」を 描写する言葉であったこんな欺瞞ワードは、今ではもちろん、それを維持できなくなって、 欺瞞は達成すべき目標になって、現場には変な利権が跋扈して、もはや回らない。

今さら「村八分」再開するのは無理なんだから、暖かさとか平等とかチームワークとか、 欺瞞ワードで思考停止するの止めないと、社会のインフラ維持するの無理だと思った。