透過的ルールと能力

うちの地域でも今度から、小児科医療が無料化するらしい。 県知事が会見開いて、「予算の問題はあるけれど、各地域協力してほしい」なんてやってた。

大学にも少しづつ小児科が増えて、うちの県限定で、 せっかく小児科が復活しかけてたけれど、これで「終わったな」と思う。

無料化は意思表示の機会を奪う

小児科を無料化すると、夜間の救急は、間違いなく子供が増える。 診るほうからすれば、子供さんはリスクの固まりだから、 子供が来たら、みんな小児科医に振る。小児科は潰される。

「軽い」症状の子供は、医師にとって一番怖い。

軽い子供は、極めて高い確率で何ともない。親御さんはだから、 「絶対大丈夫」という承認を買いに、夜中にやってくる。

子供は症状訴えないし、夜中に検査も回せない。 医療者側はどうやったところで「大丈夫」なんて言えない。 夜中に「わざわざ」やってきた親御さんは、満足感が得られないから トラブルになって、明け方に小児科医が叩き起こされる。

「無料」ルールは、「悪徳」医師を増やしてしまう。

最大の利益を上げようと思ったら、医療者側は検査を乱発することになる。 子供さん来たら、頭からつま先までCT 刻んで、ありえないぐらいたくさんの採血検査をだすことで、 収益は上がる。誰かがそれやれば、その地域では、それが当たり前になる。 同じサービスを提供できない「良心的な」医師は、今度は不誠実な医者と叩かれる。

無料ルールは、だから制度を悪用した人が一方的に得をして、 それ以外の「良心的な」医師は、自慢の良心を発揮できない。

患者さん側からは、そんな流れに対して、一切の介入ができなくなる。

成果に対して対価を支払う、従来のやりかたならば、患者さんは、 お金の流れをコントロールすることで、医療者側に自分の意思を伝えることができる。 無料ルールは、何をやっても「無料」。患者さん側は、判断の機会を一方的に奪われてしまう。

無料という、成果に対する判断を顧客から奪うルールは、だから必ず利権を生む。 ルールで得する人と、ルールで一方的に損する人が出て、個人の努力が無意味化する。 長期的に見て、間違いなく現場が疲れて、回らなくなる。

顧客に判断をゆだねるやりかた

患者さんに医療現場を「育てて」もらおうと思ったならば、病院の外来に、 タクシーメーターみたいなものを取り付けるといいんだと思う。

外来で世間話して、「一応採血見ときましょうかねー」なんて医師が呟いたら、 外来のメーターが 10000 円ぐらい、いきなり跳ね上がって、患者さんがびっくりするような仕組み。

タクシーメーターは、それが動くことで、患者さんにそのつど、自ら受けるサービスの 価値判断を強要する。自らの体調とか、常識と照らし合わせて、医師の「一応…」には 果たして10000 円もの価値があるのかどうか。

価値があると思えば話を流せばいいし、価値が無いと思ったならば、検査を断るか、 医師に説明を求めればいい。医師だって説明するの面倒だから、そんな行為のくり返しは、 やがて「分かりやすい外来をやる医者」を育てることにつながる。

ルールを改訂して、サービスを充実させようと思ったのなら、 サービスを提供する医療者サイドは「無脳化」する流れ、 サービスを受けるお客さん側は、頭を使うことが自らの利益になるような構造を 作る流れにしないと、そのサービスは良くならない。

提供されるサービスのコストが均一になれば、市場の見通しはよくなって、 査定がしっかりできる患者さんなら、もちろん不必要な検査を減らして、 経済的に得をすることができる。

判断を放棄する人は、その代償として高コストを受容しないといけないし、 リスク覚悟で低コストを選択する人は、今度は医師から「同意書にサインして下さい」なんて、 契約書の山を渡される。

受けるサービスは人により異なってくるけれど、本来は、 こんなやりかたのほうが「公平」なんだと思う。

議会制度のこと

サービスの現場を回すルールは、だから「透過的」になる方向を目指すべきなのであって、 「平等」とか「無料」みたいな、ルール自体がその存在を主張する方向に行ってはいけない。

問題なのは「議会制度」という、ルールを決めた人の「功績」が、有権者から見えること、 有権者の目に付くところに、いつまでも残ることに強い動機が発生する制度それ自体なんだと思う。

「無料」ルールはいくつもの自治体で行われて、現場無茶苦茶になっているのは みんな十分分かってるのに、それでも「無料」を強行するのは、要するにハコモノ作ったり、 道路敷いたりといった「功績」残さないと、次の選挙に勝てないからなんだろう。

立場が生得的な王制とか、賞賛やら功績やらがすべて個人に帰着する独裁者なんかは、 功績を「可視化」する動機が発生しない。センスのいい独裁者が、しばしば上手に国を盛り上げるのは、 たぶんこのあたり、理性優先でやれるからなんだと思う。

ルールを票につなげたいなら、表向きは「タクシーメーター」みたいな透過的ルール を提案して、その裏側で、医療費補助みたいな大盤振る舞いやればいいんだと思う。 患者さんが一度会計を済ませたあと、行政に喜んで尻尾を振るような、 「かわいい」人達限定で、お金をばらまけばいい。不公平だけれど、 「無料」ルールよりもよっぽど安価に、支持票を購入できる。

能力のこと

「公平な」ルールの元で得をするのは、「ものの価値を判断する能力」が高い人。

最初から収入のいい人は、価値判断なんて面倒事も含めて、医師から「購入」することができるし、 収入が低い人でも、ちゃんと価値判断を行ったり、利用可能な行政サービスに 自覚的になることで、コストと質の両立を目指すことができる。

物事を透過的なルールの元で運用すると、ちゃんと考える、 あるいは価値判断を行う能力が高い人は得をして、能力の低い、 今まで「声の大きさ」に安住して、利権貪ってた人達は損をする。

サービスを提供する側から見ると、これはすごく「公平」なことだと思うんだけれど、 こんな論理もまた、「価値判断を行う能力と、その人の収入とは、ほとんどの場合比例する」 という事実に目をつぶっている。

「ものの価値を判断する能力」というものは、しばしば収入に直結している。

能力高いのに、まじめなのに損してる人がたくさんいるのが今問題になっているんだけれど、 能力には無数の種類。収入につながる能力もあれば、たぶんそうでないのもある。

ルールの裏をかくとか、お得な抜け道探すとか、 そんな能力を持ってれば、収入が低くても「公平」ルールから質の高いサービスを引っ張ることは できるんだろうけれど、「公平」ルールで割り喰う人達は、 そもそもそんな能力に欠けているから、収入も低いし、いいサービスとも縁遠くなってしまう。

公平で透過的なルールを志向して、「お徳度」は能力に比例するやりかたは、 そこから割りを喰う人から言わせれば、やっぱり「平等じゃない」んだとは思う。

透過的ルールで得する人達は、きっと「ルールが平等なんだから、 能力ないのは自己責任」なんて言い切る。そんな論理に反駁するのは大変だし、 もう一つおまけに、弁が立つ人は、たいていの場合、 透過的ルールで得する側に回るから、相手を議論でひっくり返すのはますます難しい。

「公平なルール」というものを、自分は心から望んでるんだけれど、 このへんどう考えればいいのか、まだよく分からない。