不自由な安心社会

輸血のこと

手術中の出血がひどくて、妊婦さんが亡くなった。 メディアの人達は、術前に用意した輸血の量が少なかったなんて叩いてた。

同じ頃、輸血製剤の合併症も叩かれてて、 「安心できる輸血製剤」の登場が求められてた。

法律が変わって、全ての輸血製剤には放射線の照射が義務付けられた。 それでも「安心」は足りなくて、日赤から出荷される段階で、 全ての輸血製剤に放射線がかけられるようになった。

放射線照射を受けた血液は、保存できない。返品可能だった輸血製剤は 「買いきり」ルールになって、今度は病院が、「万が一」に備えた輸血を用意できなくなった。

自分達が研修医だった頃は、輸血というのは「たくさん取っておいて、 あとから返品するもの」という感覚。

10単位請求して、経過がよくて3単位しか使わなかったら、血液製剤は返品できた。 慢性的に輸血は足りないし、「もったいない」ルールで回ってた。

今は「買いきり」制度。

「不安だから輸血取っておく」とかできなくて、たくさん確保して使わなかったら、 すべて病院側の持ち出し。患者さんに請求しようにも、体の中に入らないから、 さすがに「安心だったんだからお金下さい」なんて言えない。

使う側にも、売る側にも「安心」が求められて、現場はますますやりにくい。

輸血製剤は、今では万が一の合併症がおきたときにも、 説明責任は「医師」の側。「規約」とやらで、そう決まってるらしい。 血液売る側の人達は、売りっぱなしで来てくれない。彼らもきっと怖いんだろうけれど。

「確実」が心不全を増やす

検死が 2 件あった。両方とも「心不全」。

病院の外で亡くなった患者さんは、基本的には警察官による検死を受けて、 初めて死亡診断書が書かれる。検死の現場は、確実なことしか断言したくない医師側と、 とにかく「病名」に帰着させたい警察側との交渉が大変。

医師が「確実」を譲らなかったら、全ての死因は「心不全」になる。

心肺蘇生しながら病院に運ばれて亡くなった人は、亡くなったその時点では、 「心臓が止まった人がいる」ということ以外、何一つ確かなことが分からない。

外傷があろうが、吐血していようが、その人は、病院にきた時点ですでに心臓止まってたわけだから、 因果関係を証明できない。

「事件性がある」と判断したら、警察は本気で動く。

あの人達は、一度本気を出すと、ものすごい人数で動かないといけない。 マンパワー全然足りてないみたいだし、本音のところではたぶん、 彼らは医師に「病名」を見つけてもらって、その人が「事件性なく」亡くなったことに、 医師のお墨付きが欲しい。

最近は、だからほとんどの患者さんに、亡くなったあとにCTを撮らせてもらう。

CT 切って、大きなくも膜下出血とか脳出血とか、あるいは胸部大動脈瘤の破裂なんかが 見つかれば、その人はたぶん、かなり高い確率で、それが原因で患者さんは亡くなったと推定できる。 そんなときは、警察の人と相談して、診断書にそう書く。

ところが、高齢の患者さんにCT 撮って、たとえば巨大な肺炎の影を発見しても、医師は診断できない。 「心臓が止まった人に肺炎があった」ところまでは確かだけれど、 「その人が肺炎で亡くなった」のかどうかは、断言できないから。 亡くなる瞬間に立ちあえない場合、だから確実な診断をつけることなんて無理。

若い力士の「心不全」報道

ニュースで話題になっていた、若い力士が亡くなって、病院で「心不全」と診断された 事例なんかも、たぶんこんなやりとりがあったのだと思う。

「全身アザだらけの健康そうな若い男性」が、心臓が止まった状態で病院に担ぎこまれた。

若い人の心肺停止は大事件だから、たぶん病院中の医者が駆り出されて大騒ぎして、 心肺蘇生したけれど戻らなくて、CT 撮ったはず。このときすでに、 骨折ぐらいは見つかったかもしれない。

この患者さんは、CTを撮ったその時点では、「全身に外傷を負った、心臓が停止した若者」であって、 「外傷のため亡くなった人」にはなり得ない。

事実をいくら重ねたところで、真理には到達できない。

「確実」重ねたそこから先は、医師が因果関係に踏み込むか、警察が「事件性あり」と判断すれば、 その人は「外傷のため亡くなった」人と判断されるけれど、 みんなが「断言可能な真実」の範囲にとどまる限り、 医師側からは、「心停止」という診断しか下せない。

警察の人はたぶん、「診断して下さい」なんて医師に要請したはず。 外傷と心停止との因果関係なんて、証明するのはほとんど無理だから、 医師側はたぶん、「心臓が止まったということ以上のことは言えない」なんて突っぱねた。

検死の場合、診断書の雛型を作るのは、警察署にいる上の人だから、 医師がこんな言いかたをすれば、 警察の人もまた、「心不全」なんて病名しか記載できない。

素人の邪推だけれど、あの一件はたぶん、誰かが悪意で事実を隠蔽したのではなくて、 アナログな伝言ゲームに不備があって、現場のニュアンスが伝わらなかったのだと思う。

誰も「踏み込み」を行わなかったという部分は責められるべきかもしれないけれど、 「確実さ」を極めて厳密に求められる昨今、「踏み込む」勇気は誰にもなくて、 「心不全」ばっかりが増えていく。

信頼性を放棄したコミュニティを作りたい

何するのにも確実さが求められていく流れの中では、 自分みたいな何でも中途半端にしかできない一般医には、そのうち居場所が無くなってしまう。

「確実さ」を武器にできる専門領域を持たない一般医が、「中途半端だけれどいろいろできる」 なんて立ち位置を生かすためには、サービスを提供する対象を絞り込まないといけない。

一般医が「広く一般の人」を対象に仕事をした場合、その立場は「専門医の劣化コピー」にしか なり得ない。一般医はだから、自らの「中途半端」を許容して、 「いろいろ」に価値を見出してくれるコミュニティを自分で作るか見つけるかして、 初めて自分の居場所を見出せる。

専門家は、広く一般の人を対象に、自らの「特別さ」を販売して対価を得る。 一般医は逆に、一般の人から「特別な誰か」を切り出して、その人達に「平凡な自分」を販売して 対価を得るやりかたを考えないと、間違いなく不幸になる。

もういないだろうけれど、今から一般医を目指す人達は、だから講演活動とか 作家活動とか、あるいは自分を受け入れてくれるネットコミュニティを自ら創るとか、 何か一般から「特別」切り取るチャンネル持ってないと、成立しないと思う。 「一般」を名乗るということは、自分を特別にする武器を、あえて放棄することだから。

具体例はいろいろ。生きかた上手の日野原重明先生なんかもそうだろうし、 「地元の生き神様」目指して、閉鎖的な僻地に立てこもることなんかも、 「一般」から「特別」を切り出すやりかた。

安心に息が詰まって、過剰な確実さに不便を感じてる人達は、まだたぶん、どこかにいるはず。 そんな人達を対象に、「中途半端な一般医療」を安価に販売する、 そんなやりかたを見つけられたら、一般医は今よりもう少しだけ、幸せに仕事ができるかもしれない。