標準偏差の復権が来るのかも

道路特定財源のお話が、ニュースで流れてた。

夜にやってたのは、都内で開かれた道路討論会。民主党国会議員と、 宮崎県の東国原「そのまんま東」知事と、あと何人か。寝る前に見たニュースで流れてたのは、 和歌山県を視察しにきた民主党議員と、それを迎え撃つ地元県会議員の人達。

「ながら」見しながら考えてたこと。

タレント議員のこと

討論会。東国原知事は、自分の役どころをよく分かってるように振舞ってた。

知事は、地元では眼鏡をかけずに、ジャンパー羽織って宮崎県の宣伝に 駆けまわってるイメージ。まじめだけれど下世話な立ち位置。

昨日の討論会では、きちんとスーツを着こなして、フレームの薄い眼鏡をかけて、 自分の立場を訴えるときも、声の抑揚を大分抑えていた。

「無駄な道路の廃絶を訴える民主党に、地元利権の手先になった知事が群がる」。 道路特定財源問題に関しては、マスコミの人達は民主党の立ち位置を支持していて、 そんな構図を撮ろうとしていた印象。

マスコミは、だから東国原知事の一番醜い姿を捉えようと、長時間の討論会を通じて、 ずっとカメラを回しっぱなしにしていたはず。知事はたぶん、それをよく分かってて、 声を荒げる場面も作らなかったし、オーバーアクションの「下世話な」やりかたも、 普段以上に抑えてた。

和歌山県議の人達

視察に訪れた民主党議員を迎えた和歌山県議の人達は、醜かった。

テレビカメラは、国会議員を迎え撃とうと待ち構える県会議員の中で、 一番「下衆な顔つき」を探して、その人の、一番下品な瞬間を狙ってカメラを回してた。

和歌山県議の人達だって、きっとそれなりの大義を持っていて、 「道路が必要」を訴えるために国会議員を迎えたはず。

カメラには、「合理主義の国会議員に群がる乞食の群れ」が映ってた。

「下品な」顔立ちであったり、大きな声であったりという記号は、正しく使えば武器になる。 鈴木宗男議員なんかそうだけれど、「下品さ」というパラメーターは、 見せかたによっては「頼りがい」とか、「力強さ」とか、ポジティブなアイコンとして機能する。

和歌山県議の人達は、自らのアイコンをメディアに運用されてしまって、 無残なことになっていた。

ピーク性能と標準偏差

「顔」にはたぶん、「ピーク性能」と「標準偏差」に相当する評価軸がある。

普段「ピーク性能」出せるときに、頼りがいのある、「タフな男」的イメージを 使えても、状況ごとのイメージのばらつき、 「標準偏差」が大きな人は、意図を持ったメディアを前にしたとき、 自ら持っている武器を生かせない。

そのまんま東」であったり、あるいは福田総理なんかも、 「ピーク性能」は必ずしも優れていない。見た目に魅力があったり、 頼りがいのありそうな雰囲気なんかは薄いんだけれど、 どんな状況であっても、どんな「意図」を前にしても、イメージがぶれない。

すごいときの「すごさ」はそれほどでもないけれど、最悪の瞬間を狙った「編集」に対して強いから、 ああいった人達は、議員で居続けることそれ自体が、ブレのなさ、信頼につながっている。

「ブレのなさ」という価値のこと

信頼というものは、その人が持っているコンテンツを担保に発生するのだと思う。

信頼というのは理論ではなくて、「人」から生まれる。

どんなにすごい経歴の持ち主であっても、 どんなにすごい製品が誕生しても、コミュニケーションという「市場」の検証を受けない 「すごさ」は、信頼を生まない。

たぶん芸能人は、立ち位置の信頼性が強く求められるお仕事。 ドラマの主役を張るような「ピーク性能」要素は、 もちろん持って生まれた何かが大切なんだろうけれど、主役だけではドラマが作れない。

悪役は悪くないといけないし、切られ役の人は、視聴者の印象を引きずってはいけない。 みんな与えられた役どころがあって、番組の状況が変わっても、 役どころを崩さないよう、注意しないといけない。

求められた立ち位置を演じきれない人は、その人がどんなに面白くても、 番組には使えないから、そのうち声がかからなくなる。

芸能界を生き残ってきた人は、だからこそ生き残っていることそれ自体が信頼になって、 自らの立ち位置を守ること、 「標準偏差」を少なくすることに自覚的になれるのだと思う。

編集の時代と標準偏差の力

編集からは誰も自由になれない。

メディアの敷居が低くなって、流通する情報量が莫大になって、 「編集」という行為それ自体の力は、拡散することで目立たなくなったけれど、 総体としてはたぶん、ますます強力なものになった。

編集が状況を支配するとき、弱点が少ないことは、 長所が多いことに拮抗するか、もしかしたら勝る可能性がある。

能力は、スペックシート上の「ピーク性能」と、 いろんな状況ごとにその性能を保証できるだけの「標準偏差」と、 両面で評価しないといけない。

ピーク性能を測定したり、評価したりするのは「実験室」レベルで可能だけれど、 状況ごとのばらつき「標準偏差」というものは、ある種の「市場」に晒されないと、 評価ができない。

ピーク性能の差をひっくり返すのは難しい。どんなに努力を重ねたところで、 持って生まれたものの差は厳然としてそこにあるし、「努力できること」それ自体もまた、 持って生まれた「ピーク性能」の評価軸で評価されるものだから。

「偏差の小ささ」というものは、たぶんある種のコミュニケーションを通じて鍛えることができる。 くり返しが密であること、評価する人数が多いことが、そのパラメーターの信頼度をきめる。

芸能界や国会は、日本で一番厳しいコミュニケーションが行われる場なのだろうし、 ネットワークというものもまた、個人の信頼が醸成される場なのだと思う。

ネット世間でおしゃべりしながら、たとえば何かの商売を考える。

「この人がやれば、絶対成功するだろうな」なんて想像する人達は、 炎上回避しながら長く発信してる人であったり、立ち位置崩れなくて、 自分が何か見るときの基準にしている人であったり。 そんな人達がやってるサイトはもちろん、 アクセス数なんかも、自分の何倍もあるんだけれど。

あらゆる価値が相対化するネット時代、ネットワークを通じた「ブレの少なさ」という価値軸は、 鍛えておいて損はないと思う。