医療のない都市のこと

隣接する市の救急体制が完全に吹き飛んだ。

10 万人以上住んでるところなのに、夜になるともう、どの施設も救急取らない。

そこにはたしかに救急輪番制もあって、「救急指定」うたってる病院は いくつかあるけれど、実質機能していない。専門家がいないだとか、 能力的に受けられないだとか。

夜中に厄介な人が病気になると、その市ではみんな白旗揚げて、 救急車は1時間ぐらいかけて、うちであったりもっと大きな病院であったり、 どこか別の街まで救急車を走らせる。

こんな状態は、せめて議会で問題にはなってるんだろうけれど、 書類上はたぶん、その市の救急体制は「足りてる」ことにされていて、 行政は、今以上の行動をおこせないはず。お金かかるから。

「だろう」が全てを悪くする

必要な能力を定義しないで、状況を定量的に評価しない、 「あるだろう」、いざとなったら「できるだろう」で思考停止する構図は、 なんだか昔の日本軍に似てる。

旧軍では、部下は「忘れました」以外の発言は許されなかったらしい。

上司が判断を間違える。伝えるべき言葉を伝え忘れる。これはもちろん、明らかに 上司の責任なのに、上司の不実は、すべて部下の「忘れました」という謝罪に帰着させられた。 「聞いていません」は許されなかったらしい。

前線では、武器も兵士も足りなくて、それでも現場は、 上層部に状況を伝え「忘れる」ことを余儀なくされて、 現場の装備は足りてることになって、その戦争は勝てることになった。

最高意志決定の段階では、現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けている時は特に。 戦力は「足りてる」こと、戦争は「勝てる」ことにされて、事態はどんどん悪くなる。

現場から遠い場所ではたぶん、楽観主義が現実に取ってかわる。 それは行政の人達も、あるいは「頑張ってください」なんて、 安全地帯から応援を、ついでにめんどくさい患者さん投げてよこす開業医の人達も。

インフラにただ乗りして、そこから利権を得ている人達。足下はもう崩れかかってるのに、 それを見ようとしない人達。彼らにこそ、現場の状況届けないといけない。

能力定義と救急の市場化

問題は要するに「できるだろう」で流されてしまう、今の救急体制。 救急外来を回す能力を、現場レベルで定義してないから、 上の人達に「だろう」で流されて、現場はいいように振り回される。

やっぱり必要なのはマニュアル化。

救急業務をマニュアル化できれば、そのマニュアルを回すのに必要な 人数であったり、必要な設備や病棟体制が決まる。「根性」とか 入る余地ないから、できないものはできない。

必要な設備と人数が決まったならば、今度はその施設が持つ設備から、 そこで一晩に診察可能な「患者処理能力」を定量できる。

能力を定量できれば、そこに市場が発生する。

少なくとも日本では、医療の能力を欠いた状態で、「都市」は存在し得ない。 その都市が持つ能力が、都市の人口に足りていないのなら、それは行政の責任として、 政治問題になる。「現場は頑張ってくれるはず」なんて逃げはうてない。

自前で医療機能を持てない都市は、本来「市」の名前を返上して、 能力を持った都市と合併するか、どこかから救急能力を調達して来ないといけない。

施設ごとの処理能力を定量して、都市ごとに持っている「救急取引枠」を市場化して、 お互いにそれを販売しあえばいいのだと思う。

救急能力が市場化されれば、たとえば大企業の誘致に成功して、多額の税収を得られることと、 医師をたくさん確保して、救急施設を潰さずに回せていることとは、両方とも「数字」として 行政の業績として、評価される。「救急取引枠」がいくらで販売可能なのかは分からないけれど、 行政側には、今まで以上に医師確保の動機が発生するはず。

ベッドなき医療は存在し得るのか ?

電話が極めて高価だった時代、「便りがないのは元気な証拠」をお互い徹底することで、 電話代を支払わないで、お互いが元気なことを知る人達が多かったのだそうだ。

彼らはたしかに電話線を使っていなかったけれど、「電話というインフラ」 それ自体を、やはり暗黙のうちに利用していたのだと思う。電話線にはもちろん、 「私は元気」という情報は流れなかったけれど、電話線がそこにあるという事実それ自体が、 「便りがないから元気なんだろう」という推測の、確実性を担保していた。

インフラというものは、だから「ある」ということから恩恵を受ける人も、 たとえそれを利用しなくても、コストを負担する義務が発生する。

開業してる人達にも、自分達「受ける側」の能力を購入してほしいなと思う。

助産院も、開業している先生がたもそうだけれど、あの人達は、 「後方に受け入れ可能な病院がある」という事実をインフラとして 利用していて、そこから自らの施設に安心感を付与している。

ベッドを持たないクリニックにだって、もちろん一定の確率で、入院が必要な、 具合の悪い患者さんが発生する。ベッドを持たない先生がたも、助産師の人達も、 だから本来、「緊急対応能力」を自前で備える必要があって、 それを「持たない」と公言したクリニックには、お客さんなんて集まらない。

医療の能力を持たない都市が存在しないように、緊急対処の能力を持たないクリニック というものもまた、本来は存在し得ない。

「能力の市場化」を行えば、開業医の先生がたは、 「救急の現場をもっと評価せよ」なんて行政に大声出すよりも、もっとずっと効果的に、 現場にお金を落とせるはず。それこそ、自分達が必要とする、あるいは、「評価」した能力に応じて。

労働の割りに対価が少ない、公立施設の救急回してる先生がたも、 市場を通じた評価が得られるならば、状況はずいぶん変わる。 公立施設が擁する医療資源は、莫大な市場価値をもつはずだから。

「声」届けることなんかよりも、よっぽど効果高いと思うんだけれど。