正義論理の市場開放

「どんな正義のもとに、その行為を行ったのですか?」という質問に 答えられない人には、経済活動を行う資格がない。

単純に商売を行うにしても、立場を主張して利権を獲得するにしても、 誰かの「損」を通じて利益を得る人達は、「その行動こそが正義である」という、 そんな大義を持っている。

実利方面、経済方面のお話だけでは、どんな商売も成り立たない。

誰もが権利を主張する。大義を持っていない人たちは、「我々にだって生きる権利がある」みたいな、 ごく初歩的な権利主張に対してすら、それに抗する術が無い。誰かから対価をもらう際には、 「売り物」を提供するだけでは片手落ちで、対価を正当化するための「正義論理」が欠かせない。

正義論理なしに経済活動を行う人は、誰かから「私の持つ正義のほうが圧倒的に大切だから、 あなた滅んでくださいよ」なんて言われたところで、反論できない。反論できないならば、 その人は黙ってそこから立ち去るか、相手から言われるまま、滅ぶしかない。

医者叩きの各論化

医者叩きの論調が、最近少し変わった。

朝日新聞は勤務医をほめて、開業医を叩く。どこかのニュース番組でも、 「疲弊する医療現場」みたいな特集組んでて、勤務医の現場「」大変みたいですなんて、 暗黙に「それに比べて開業医は…」なんて匂わせた。

「分断して統治せよ」というのは、植民地政策とか、労働組合潰しとか、 集まる人達を「経営」する時の、基本中の基本。

「分断」に対抗するやりかたは「団結」。

業界が団結して何かに拮抗するときは、槍の扱いに長けた人、弓の扱いに長けた人、 それぞれに正義の得意分野を持ち寄って、方陣組んで相手にぶつかる。

集団で戦うときには、グループの中の一番「弱い」人達が、 集団全体の防御力を決定する。 政治レイヤで「正義」を争う場面では、その「正義論理」が分かりにくい、 開業医の人達が真っ先にターゲットになって、団結した医療従事者の「防御力」を 落としてしまう。

勤務医は、「ベッド」という正義のよりどころを持っていて、生き死ににかかわる場所守る 大義があるから、正義論理が見えやすい。「好きでやってるんだから文句いうな」とか、 やられっぱなしではあるけれど、「いなくなったら困る」という一線は、みんな想像してくれるはず。

開業した先生がたの正義論理は、やっぱり見えにくい。

マスメディアが開業医を叩く。開業している先生がたは、それ読んで「盗人猛々しい」なんて 反論する。「既得権に乗っかって適当なこと言う連中が、適当なこと言うな」なんて。

「相殺主義」は、歴史修正主義の人達がよく使う、古典的な議論手法。 「ホロコースト無かった」なんていう人達は、アメリカ人の歴史学者に批判されると、 「原爆落としたお前が言うな」なんて反論する。これをやると議論が流動化して、 真実をドライブするのが容易になる。

事実を相対化するこんなやりかたは、個人的には大好きなんだけれど、 マスメディアの開業医叩きに対して、現場守ってる先生がたがこんな論理で対抗してるのは、 ちょっと残念に思った。

正義論理の開放系と閉鎖系

「お前が言うな」のマスメディアとか、あるいは医療現場を締め上げる経団連の人達は、 「市場」に正義を開放することで、その真実性を担保している。

株式会社の正義は、株主の利益を最大にすること。

彼らの正義は、全ての人に対して貫かれているわけではないけれど、 十分量の株式を調達することができるなら、誰だって仲間に加われる。 彼らは株主の意見しか聞かないし、あまつさえ株主でない人の利益を奪いさえするけれど、 正義論理が全ての人に開放されていて、天文学的な金額さえ用意することができるなら、 誰でも今すぐにでも、その会社の方針に介入することができる。

医療や消防、あるいは軍隊の正義は、閉鎖している。

公的な性格を持ったサービスは、基本的に全ての国民を対象としている代わりに、 どんなにお金を積んだところで、たいていの人は、そのサービスが持つ正義にアクセスできない。 公的なサービスは、だからこそ揺らがないけれど、 「アクセスできないことそれ自体が既得権ではないのか ?」という 意見に対しては、閉鎖しているがゆえに反論できない。

公的なサービスは、それが病院であっても軍隊であっても、「それが明日から無くなったらすごく困る」 ということが想像できて、その分かりやすさが、自らの正義論理を守っている。

消防署や警察、軍隊がなくなった社会は、すごく困る。たぶんこれは分かりやすい。

入院可能なベッドを持った病院が無くなったなら、 救急車を受け入れる病院が明日から消滅したなら、 やっぱりそれは、多くの人が困る。「滅んだら他に行けばいいんだよ」なんて、 代替手段の無い業種は、このへん強い、はず。

公的なサービス、自閉した正義をよりどころに経済活動を行う人達は、 「自らの正義」を分かりやすくしないと滅んでしまうし、滅びたくないのなら、 「正義の開放」を行うべきなんだと思う。

医師会の市場開放

権利意識が高まった現在社会では、たぶん株式会社という型式それ自体が、 会社に株主限定的な正義論理を付加するための、一種の免罪符として機能している。

たぶんこれから先しばらくの間は、「開業医は存在自体が既得権益だ」なんてバッシングが 始まって、その反動で、勤務医はどちらかというと、持ち上げられる。 医師会はきっとゴタゴタするし、今年できたばかりの新医師会もまた、 そんな論調に対してどうカウンター当てていくのか、すっきりとは決まらないはず。

開業しているのは、みんなベテランの先生がたばっかりだから、 そんなにあからさまな議論にはならないだろうけれど、 依って立つ正義論理が違う人達と一緒に何かするのは、やっぱり難しい。

開業医の営為を「正義」として正当化するための組織として、 医師会は株式会社になって、医師会員の開業医の先生とか、 あるいは医師会に賛同する勤務医の人達を、「社員」として雇用して、 その上で「正義の市場化」をはかるといいんだと思う。

「医師会の正義」は、株主に対してのみ特化する代わり、その運営方針は、 企業でも市民団体でも、株券を購入した人なら誰でも介入できるようなやりかた。

運営方針は、株主の力関係で、利益優先にも、福祉優先にも揺れるだろうけれど、 「どれが正しいのか?」という解答は、きっと市場が明らかにする。 たとえば「無償の医療を全ての人に」なんて理想論的な方針が株主総会で提案されて、 翌日の株価が暴落したなら、要するにそれは、「商売にならない医療」なんて、 市場は誰も望んでいないという答えになる。

マスコミはやっぱり、株式会社化した医師会を叩くのかもしれないけれど、 本気で何かを変えたいのなら、今度はちゃんと道が用意されている。 みのもんたあたりが100億円ぐらい、ポンと払えば、「医師会株式会社」の 運営方針を決定することだってできるはず。

正義をハンドリングできない医師会がグダグダの迷走続けるぐらいなら、 そのへん「市場化」したほうが、よほどすっきりすると思う。