正しさから自由になるべきだと思う

医療過誤訴訟なんかでの決まり文句「真実が知りたい」にまつわるお話。

昨日盛り上がっていた南京大虐殺周辺のお話で、誰かが 「決議や謝罪要求の有無に関係なく、歴史的事実は存在する」とコメントしていた。 けっこう驚いた。個人的にはもはや、「事実である」ということと、 その解釈が広く受け入れられているということとは、全く別ものだと考えてたから。

「事実である」ことに何かの力を感じている人と、 事実に対する解釈は、市場により決定されると考える人とがいて、 両者はたぶん、議論が成立しない。お互い争っても、議論のレイヤが全く違うから、 話が噛み合わない。

たとえ話

ホエールウォッチングをするために、何人もの人達が船に乗って、海面を見ながらクジラを待つ。 観客の一人がトイレに行こうと海に背中を向けた瞬間、巨大なクジラが見事なジャンプを見せて、 何故だかピンポイントで、その人をずぶ濡れにしてしまう。

船中はきっと大興奮だけれど、その人はきっと、何故だか自分一人がずぶぬれになって怒る。 クジラを見られなかったその人にとっては、濡れたのは明らかに不幸なことなのに、 周りの観客はみんなはしゃいで、あなたはラッキーな人ですよなんて。

「真実」が起きたのはほんの数秒前なのに、海を見たってもう何もない。

現時点での客観的な「真実」は、正体不明の理由でその人がずぶ濡れになったということだけで、 他の観客の祝福とか、濡れた人の不幸とか、そんな「事実」は、すべて計測不可能なものばかり。

濡れた人はたぶん、「真実」を知りたがる。自分が濡れたのは、誰か観客のいたずらなのか、 それともクジラのせいなのか。

海には鯨がいる。それはみんなが認めることだけれど、クジラの実在それ自体は、 「真実」の検証には何の力も持てない。船長さんが気を利かせていて、たとえばクジラが ジャンプした瞬間のビデオを濡れた人に見せたとしても、その人が「それは捏造だ」なんて 断言したら、やはりその証拠は価値を失ってしまう。

濡れた人の社会的な立場は、あるいはその人に、望む「真実」を提供してくれるかもしれない。

その人が著名な代議士や弁護士であったり、あるいはやくざの大親分だったりしたら、 船に乗った人達はたぶん、「クジラはいなかった」ことに同意する。 それでもジャンプしたのはやはりクジラだし、その人が誰かを犯人呼ばわりしたら、 乗客はきっと「違います」と証言して、その人が望む「真実」は遠ざかっていく。

「事実の真実性」が問題になるのは、クジラが海に潜ってしまった状態。 その事実を誰もが納得する形で検証することが不可能な状況に 陥った事実というものは、それを相対化して運用する意志がどこかに出現した時点で、 もはや絶対性を保ち得ない。

真実は市場が決める

議論というのはきっと、誰かが相対化をはじめた時点で、 「事実であること」それ自体は力を失う。

相対化の競争に陥ると、もはや科学的な検証とか、客観的な証拠といったものの 価値は無くなってしまうか、どんなに厳密な検証が提出されたところで、 その「厳密性」すらもまた、相対化と運用から逃れられない。

この段階での「真実」を決めるのは、結局のところ「市場」なのだと思う。

事実それ自体は、もはや絶対性を持たせた検証は不可能。その代わり、 それが事実として認知されたとき、そこから誰が利益を得て、 誰が不利益をこうむるのか、それを検証することは、あるいは可能な気がする。

男がずぶぬれになったという「事実」に対して、対立する複数の「真実」が 提出される。市場はたぶん、それぞれの真実が生み出す「幸福量」を査定して、 もっとも大きな幸福を生み出す「真実」を、暫定的な事実として取り扱う。

市場がたどり着く結論は、「やっぱりクジラのせいだよ」みたいに客観的な真実に たどり着くのかもしれないし、「実はこいつのいたずらだったんだよ」みたいに、 立場の弱い誰かを犠牲者にして終わるのかもしれない。

後者になってしまうのは困るけれど、それを覆すために「科学的な検証」に走るのは やっぱり戦略として間違えで、今度はたぶん、「誰かに無実の罪を着せることが、 全体の幸福度を最大化させてしまう」という、市場の構造それ自体の不備を 「市場の失敗である」と断じて、新しい市場設計を訴えないといけない。

このあたり個人的には、「格差社会」の原因問題につなげて考えている。

医師会のこと

医師会長の「年頭所感」。何だか「倫理の無謬性」に耽溺した、ヌルいお言葉。

医師頑張ってる。倫理最高。お金ちょうだいなんて。やっぱり何か違う気がする。

僻地医療の問題にしても、救急やら産科やらの問題にしても、本当に何とかしたいなら、 医師会サイドから構造の改革を訴えるのが、正しいやりかた。 首都圏で仕事する人達とか、眼科や皮膚科みたいなところで 仕事をする人たちは、よっぽど優秀な人でないと生き残れないような制度を提案するとか。

一方では自らを叩く状況を提案しながら、もう一方では組織化進めて、仮に訴訟もらっても すぐに弁護士軍団派遣する構造作るとか、医師会が「無罪」認定した医師に対しては、 仮に仕事が出来ない状況になったとしても、きちんと収入保証するシステム作り上げるとか、 現場から司法を外すやりかた。

医師自ら「叩いて」なんて提案は、たぶん政府サイドに反対する根拠がないし、 医師会が勝手に防御システム整えるぶんには、やっぱり政府には何もできない。 「舵を切る覚悟」さえあれば、医師会はたぶん、自ら勝手に医療を最適化して、 「よかった昔」を再現できるはず。

これやると、間違いなく医師の総収入は減るのだろうし、 医療の現場から司法を外すシステムは、たぶん道徳が好きな人達からブッ叩かれる。

今の医師会がやっている戦術、「皆様の健康のために」とか、「国民の福祉と幸福のために」とか、 知能障害起こしたふりして、現状にとどまって何もしないのは、倫理的にはすごく間違った 態度なんだけれど、腐った状況から最大量のお金を引っ張るための「戦術」としては、 たぶん極めて正しくて、道徳が好きな人達も、何故だか文句一ついわない。

医師会が「道徳」的な振る舞いを行うことで、医師の利益をも最大化するのに、 それやるとみんなが不幸になる。もちろんそれは、 「道徳」それ自体が間違ってるからに他ならないんだけれど、 道徳の無謬性というのは、どういうわけだかみんな疑わない。

自分だってもちろん、状況から利益を得る側の人間だけれど、 やっぱりみんな、もっと正義から自由にならないといけないのだと思う。