twitter を中心にした文章生成作法

この数ヶ月間のやりかた。そこそこうまくいく。 アイデア出しと、それを文章にするまで。あと必要な「量」のお話。

イデアは一瞬で腐る

イデア出しは twitter 。twit という専用ツールを常時起動しておくと、 クリックから書き込み可能になるまで0.5 秒ぐらい。

「コンマ秒」を追求するのは、アイデアを出すときにはとても大切。

イデアが浮かんでから、それを文章に定着させるまでの時間というのは、短ければ短いほどいい。 「1 時間を10分に」なんてスケールではなくて、1 分では遅すぎて、最低でも1 秒以内、 「コンマ秒」を縮められるなら、ツールを総とっかえしてもいいぐらいに大切。

イデアは、生まれた瞬間から腐りはじめて、すぐに蒸発する。

「覚えているから大丈夫」とか、「忘れるアイデアというのは最初からその程度のもの」という 考えかたは間違っているし、それはたぶん、すごくもったいない。

神様は細部に宿る。面白い概念浮かんで、それをすぐ文章に定着すると、 少なくとも書いたその瞬間は、文章としてすごく面白そうに見える。 ところが頭で「暖めた」発想からは、最初に浮かんだ瑣末な枝葉がなくなってしまって、 なんだかつるんとした、アイデアの「本質」みたいなものしか残らない。

「本質」なんかには何の価値もない。

半日も暖めたその「本質」というのは、「相手を敬おう」とか、「言葉は大切」とか、 なんだか陳腐な、誰にでも思いつけそうな、間違ってはいないんだけれど、そこからはどうやっても 面白い文章なんて生まれないような、そんなろくでもないものになってしまう。

偉い人の人生訓というのは、時々どうしようもなく陳腐でつまらなくて、 これだけ面白い「生」を駈け抜けた人が、どうしてこれほどにつまらない言葉しか持てないのか、 理解に苦しむことがある。それと同じ理屈なんだと思う。

イデアプロセッサとか、少し前ならwema とかマインドマップとか、 高機能で便利そうで、実際使ってみるととても便利に使えるツールはたくさんあるけれど、 そんなツールの致命的な欠点というのは、つまるところ「コンマ秒」レベルの遅さ。

twit でtwitter に書き込むのと、ブラウザ立ち上げてwema に書き込むのと、時間にすると2秒も違わない。

残念ながら、アイデアにとっては、2秒というのは妥協不可能な、 どうしようもない遅延であって、もったいなくて高機能なツールは選べない。

質より量

イデアというのは、ゆで卵みたいにつるんとした「本質」から、 無数の細かい枝葉が伸びて、ウニだとか、神経細胞みたいな形をしている。

同じ「本質」から生える枝葉の形が変化すると、アイデアというのは、しばしば 全く違った形に見えるし、同じ「本質」が、運用のやりかたひとつで真逆の論理を 補強するための材料として使えたりもする。

本質を伴わないアイデアというものは存在できないけれど、 「本質」に相当する部分というのは、「ある」という以上の価値を持たない。 本質の面白さ、つまらなさというものは、アイデアの価値それ自体には何の影響も与えられない。

残念ながら、本質と切り離された枝は、価値を評価することができない。

ある文脈では、その枝葉を持ったアイデアには大きな価値が生まれるけれど、 文脈がわずかでも変化すると、そのアイデアが力を失ったり、あまつさえ邪魔になったりする。

文脈と切り離された「アイデアそれ自体」に価値を見出してしまうと、ろくなことがおきない。

当初はいいアイデアだと思った何かは、文脈が変わってもそこに居座り続けて、 文章の流れを乱してしまう。邪魔ならどかせばいいだけの話なんだけど、 アイデアのストックが少ないと、つい「もったいない」をやってしまって、 文章全体が腐ってしまう。

特定の文脈で価値を持つアイデアだけを発想することなんてできない。 アイデアに質を求める立場は、しばしば量を制限してしまうし、 量を伴わない質からは、結局のところ「いい流れ」を持った文章は生まれない。

全てはテキストエディタに集約する

大雑把に3日分ぐらいのおしゃべりがたまったら、そのログをおこして切り貼って、 何となく形を作ったら今度は削って、一つのエントリーに仕上げてアップする。大体2時間。

ログおこすのは twitter 検索から。全て自分の言葉。他人様の言葉とか、 ネットで見つけた面白い考えかたなんかは、別途テキストエディタにコピーしておく。

ネット文章をスクラップしておくツールにtumblr というのがあって、 今これも試しているんだけれど、自分にとっては高機能すぎる印象を持っている。 面白そうな考えかたに出会ったら、単純にテキストをコピーして、 パクりにならないようにリンク先だけメモできればそれで十分だから。

これだけをやるのに ZakuCopy というツールが 公開されていて、コピーした文章と、そのアドレスとを一緒に保存してくれる。単機能ツールなんだけれど、 実際これで十分で、もちろん動作は圧倒的に速いから、ずっとこれを使っている。

はてなブックマーク」みたいなソーシャルメディアは、おしゃべりのために使うことはあっても、 ソーシャルブックマークの機能それ自体を、何か情報を集めるために使うことはほとんどない。 それも要するに、自分にとっては高機能にすぎるから。

おしゃべりのログは、時系列に並べなおして、テキストエディタにコピーする。3日分とか、 複数のテーマで適当に喋り倒した言葉の断片を、何となくいくつかのテーマに分類してコピーする。 この時点ではまだ、何を書くのか、どんな結論になるのか決まらない。

真ん中にくる一言を決める

訴えたいことなんてない。要するに自分の文章というのは、 「何かかっこよさげな一言」にリアリティを持たせたいがための、 厨房設定みたいなものだから。

文章の中心となるのは、そんな「何かありそうな一言」。

何も考えないで、勢いで喋り倒していると、論理には必ず無理がくる。いろんな人との反応があって、 論が迷走すればするほど、自分の思いと、実際しゃべられている「論」との間に解離ができて、 「歪み力」みたいな応力がたまっていく。

歪みを許容すると、なんだか負けを認めたみたいで嫌だから、たいていどこかで、 「無理筋飲み込んだ一言」、なんだか偉そうな、思わせぶりな「一言」が出てくる。 何となく分かったような、分からないような、 あるいはもしかしたら、おしゃべりしていた相手の方があきれるような言葉。これが文章の真ん中部分。

そんな一言は、そもそも無理な何かを勢いで断言している。 自分はいつも、そんな一言を文章の中心に置いて、それに説得力を出すために、 前後の文章を切り貼っている。

「自分の中に湧きあがってきた、言いたいことを書きましょう」なんて、 そんな模範的な文章作法には違和感がある。「言いたいこと」なんてそもそもないから、 いつも結論を作るのが一番大変。真ん中の「一言」越えたら急速にモチベーションが 下がってくるから、時々最後の最後で力尽きて、陳腐な結論で終わったりする。

削りかた

文章は切り貼り。エディタにコピーした言葉の断片を眺めながら、たいていの場合、 もう一度最初からうち直して文章にしていく。

エディタに「材料」になる言葉の断片コピーして、実際文章が出来上がって、使うのは6割ぐらい。

とりあえず書きあがった後、エディタの下半分には、使わなかったアイデアとか、一部だけコピーして、 虫食いになって意味が通らなくなった文章の断片なんかがゴミの山になる。

やりかたは原始的で面倒だけれど、1 万字いかないぐらいの文章書くなら、 わざわざアウトラインプロセッサを持ち出すまでもないような気がしている。

できた文章は削る。

「というのは」、「しちゃったりする」、「ものすごく」、「~になっている」、 「するようなきがする」、「そんなわけで」、「言うまでもなく」みたいな言い回しは、 まず削る。なくても意味は通る。

削るだけ削っても、たいていまだ5000字ぐらい。今度は段落ごと削る。 意味が通らなくなっても、前後の流れ、あるいは今までのエントリー読んでる人なら 推測できるぐらいの欠落なら、それも削る。3000字台におさめたら、blog にアップする。

アップロードして、版面が重そうな場所とか、改行がおかしいところなんかをさらに直して完成。

この文章なんかだと、書き始めは10000字越えていて、文末削って7942字。最終4700字。

言葉の育てかた

「神の数は3だった」とか、「良心は行動から事後的に決定される」とか、何でもいいんだけれど、 実体としては何も記述していないのに、言い切っちゃうと何となくかっこよさげな、そんな一言。

これを見つけて育てるのが、文章のはじまり。

ただの言葉は、実体としての力を持たない。それではちょっと寂しいから、 まずは「その言葉が力を持つ世界」を設定して、もうひとつ、 その言葉が読者に「発見される」状況を設定しないといけない。

それはたとえば、3を信仰する宇宙人が作った構造物が飛んできて、 それを人類が探索する話であったり、最初から異世界を設定して、 その中で「3」を受け入れた人達の日常を描くやりかたであったり。SF 小説の書きかた。

リアルな世界と状況とを作り出して、作家ははじめて登場人物のことを思い描いて、 その人達を喋らせる。これで小説が書ける。

残念ながら小説が書けるほどの豊かな想像力を持った人は少なくて、 自分にもまた、そんな能力なくて。

本当は、俺様設定のSF小説が読みたい。自分で設定した世界観の中で、 何となくいわくありげな登場人物が何か喋ってるの読めたら、 きっとすごく面白いだろうなと思う。

まだまだ能力足りないけれど、自分の文章はいつも、基本的に「SF」だと思って書いている。 「小説」になる前段階、世界観の設定ノートみたいなもの。

量が質に転化する

リアルさは、見えない部分の記述量に逆比例するのだと思う。

書きたいのは小説。無理だからblog 。

「いい小説」の代表選手に、「奈須きのこ」と「京極堂」なんかを挙げたら厨房だと笑われるだろうけれど、 あの人達はきっと、「○○ページで書かれてた戸棚開いたら何が入ってるの?」とか、 「京極堂書店の本棚、上から3番目、右から12冊目の本は何 ?」なんて質問にも、 たぶん間髪入れずに答えを出せる。

発想しただけの世界設定は、まだまだ単なる風景画、「書き割り」にしかすぎない。

絵の中では、登場人物は動けない。それを「世界」にしていくためには、 絵の角度からは見えない、多くのことを想像して、どこかでそれを記述しないといけない。 記述したところで、見えないそれは、読者の目に入ることはないのだけれど。

見えないものを書いた文章、 いっぱい書いてから削り込んだ文章というのは、 「見える」部分だけを記述した文章よりも力を持つし、 ソーシャルブックマークみたいな「集合知」を実体化した何かというのは、 そんな「見えない部分」をも「見て」「査定して」、それを序列化することに成功しているのだと思う。

リアルを背負った世界観は、別の世界観を引き寄せる。

それはもっと面白い世界記述を行っている人であったり、 あるいは実世界で面白いことをしている人であったり。記述を続けた世界観は、 やがて自身を語る名刺として一人歩きをはじめて、いろんな人と知りあいになれる。

それをやるには量が必要で、「質」というのは、 量が担保されてはじめて問われる、むしろ副次的なもの。

自分の経験では、ある種のリアルさを持った文章を、できれば200本。40万字。 それには1年かかるし、リアルだからこそ「一発逆転」は望めなくて、 どんなに才能あふれた人であっても、 やっぱり「下積み期間」に相当するものはスキップできない。

もっと面白い人に出会いたい。

もちろん見つけられないのは自分の怠慢なんだけれど、 その人の「顔」を認識するためには、あるいは文章が顔を持つためには、 やっぱり「量」は欠かせないのだと思う。