勤勉という悪徳

整形外科の手術リストに、「野球肘」のお子さんが載っている。まだ中学生。 少年野球の元エース。

中学校に進級してすぐに肘を壊して、30度以上延びない。手術はできるけれど、 整形外科的には、もう野球は勧められないらしい。

たぶん子供なりに好きを貫いて、恐らくは賞賛の声を惜しまないコーチに恵まれて、 一生懸命頑張ったんだろう。残念ながら、そのコーチは勤勉ではあっても能力がなくて、 子供の肘は壊れてしまった。

善なる無能は邪悪に通じる

「好きを貫く」ことは難しい。好きであること、賞賛という強化因子があるだけでは まだ片手落ちで、「好き」に応した十分な才能に恵まれて、 さらにもう一つ、「能力」のある導き手につかないと、惨めなことになる。

無能で勤勉な人というのは、しばしば災厄をもたらす。

「厳しいだけの無能なコーチ」なら、たぶん子供の肘は壊れない。 子供は野球嫌いになったかもしれないけれど、少なくともその子の肘には、 回復不能なダメージが残ったりはしなかった。

小学生の子供をして、外から見ても関節の変形が明らかになるまで、 肘が全く伸びなくなるまで自分の体を痛めるのは難しい。裏返せばそれは、 そのコーチにはよっぽど人望があって、その子はコーチに嫌われたくなかったんだろう。

コーチは恐らくは、人間として「善」であって、しかも極めて勤勉ではあったけれど、 コーチとしての能力が欠落していたから、その存在は邪悪になった。

能力を伴わない勤勉さを賞賛してはいけない。

能力ある怠け者は将軍になれるし、能力のない怠け者だって兵士になれる。 ところが無能で勤勉な人というのは、戦争になると、まず真っ先に味方を殺してしまう。

能力は勤勉さで計測できない

勤勉さというパラメーターを用いて能力を測ろうとする態度は、 どこか致命的に間違っている。

勤勉さは分かりやすくて、恐らく定量的な評価すら可能だけれど、 「勤勉であること」それ自体は、能力があることを全く担保しない。

失敗プロジェクトを救済した立役者なんて取り上げられる人というのは、 メディアが華々しく取り上げる一方で、同僚の陰口レベルでは、 必ずしも評価が高くないことがある。そんな乖離の原因となっているのが、 たぶん「能力を勤勉さで測ろうとする態度」なのだと思う。

プロジェクトX 」みたいな成功物語でも、もしかしたら本当に状況を救済したのは 「能力の高い怠け者」であって、その人の本当のすごさというのは、 外から見た「勤勉さ」パラメーターで測定できない。

状況打開の立役者だなんて、勤勉さを売りにして取り上げられた人の中には、 案外ただ単に「足を引っ張らなかった」という以上の貢献が無い人だっているのかもしれない。

勤勉さを目指した先には、必ずしも能力は発生しない。

学校に入った子供達に最初に教えるべきことは、 「世の中には能力に欠けた人が、能力が必要な場所にいることがあって、 その人の勤勉さと、状況ごとに必要な能力を持っていることは、 必ずしもイコールでないんだよ」ということなんだと思う。

背が高い男は有罪か ?

裁判官が、「男の背が高い」というだけで、ある事件を有罪にすることは正当だろうか ?

医療過誤裁判なんかでは、医者の世界と法律の世界、 そもそも「能力」という言葉に投影されるイメージが、 全く異なっている気がする。

同業者から見て、能力の足りない医師が事故を起こしても、そもそも裁判どころか トラブルにすらならないのに、能力的には十分な、少なくともその人よりも優秀でない人なんて いくらでもいる人が、しばしば裁判にかけられている。

裁判所で評価対象になるのは、「過失の有無」とか、「努力したのか」とか、 要するにそれは、外部から計測可能な、「勤勉さ」の延長線上にある何か。勤勉さの有無と、 能力の有無とは、やっぱり関係ないはずなのだけれど、裁判で争われるのは勤勉さ。 それは勤勉さでしかないはずなのに、いつのまにかそれが「能力」として争われる。

本来査定すべきは、主治医であったその医師に、その状況を任せられるだけの 能力が備わっていたかどうかなのだけれど、それは実際難しいから、 「勤勉さ」パラメーターで近似をかけているのだとは思う。

その近似はあまりにもいい加減で、勤勉さは、能力を査定するものさし としては役立たずで、極論すればそれは、「その男は背が高い。だから有罪」と、 何ら違いは見えない。

能力は関係の中においてのみ観測される

状態変化の特異点におかれた人は、誰かからその能力を要請された人というのは、 要するに触媒なんだと思う。

反応させる物質であったり、反応温度みたいな環境を抜きにした、 「触媒それ自体」の優劣を論じることに意味がないように、人の能力それ自体を、 その能力を要請した状況から切り離して論じることは、本来できない。

特定の反応物質に対する触媒の能力は、 一定時間に生成した反応物の量として観測するしかない。 「能力」という考えかたは、だからその人に与えられた仕事が終わって、 その成果を測ることでしか評価できない。

たとえば「教員の能力」なんてものを測ろうとしたら、それはやっぱり、 その子がいい大学に入ったかどうかになるんだと思う。結果がすべて。

999人の子供を東大に叩きこんだ教員は、999人目までは「有能」と判断されるかもしれないけれど、 1000人目の子供が試験前日に入院したら、その子にとっては、 やはりその教員を「無能」と判断するしかない。

あるいはまた、東大にいった999人は、まるで人形みたいな性格に書きかえられていて、 「暖かい子供に育ってほしい」なんて思いで「有能な教師」を要請した親御さんは、 やっぱりその教員に無能判定を下すかもしれない。

能力というパラメーターは、それを評価するコミュニティとの相互作用を通じてでしか決定できないし、 観測者もまた、能力を持った人を取り巻く系から自由ではいられない。

状況定義と能力と

その人に何をしてほしいのか。

能力を要請された人は、自分にできること、自分がやるべきと信じたことを行うことしかできないし、 最終的に「出来上がり具合」を判断される何かと、その人が産出した何かとは、 状況定義が甘い場合、一致することが少ない。

何かの仕事を任された個人の能力は、状況定義を行う人の優秀さと切り離して考えられない。

たとえば洗濯をする機械がほしい なんて状況定義。

こんな状況定義を行った人は、どんな技術者に頼んでも、もしかしたら満足する洗濯機 には出会えない。自らの頭に「洗濯」のイメージが作れない人は、 何を持って成功といえるのか、それを判断するすべを持たないから。

「洗濯をする機械」という状況定義を、たとえば「水を均一に攪拌する機械がほしい」と 記述する優秀さを持った人なら、かなり高い確率で優秀な機械に出会えるし、 恐らくは「洗濯する機械がほしい」なんて状況定義を行った人よりも、より低いコストで 「洗濯機」を手にすることができるはず。

状況定義を行う人の優秀さこそが、触媒の優秀さを引き出すのだと思う。

医療保険のこと

医療保険制度は、なんだか大声コンテストの様相。

保険制度は本来、「勤勉さ」みたいに測定可能なパラメーターである「重症度」に応じて、 患者さんの負担金額を補助したり、医療サービスを分配したりする制度。定量的な システムだから、うまく廻れば、トラブルは発生しないはずだった。

人類平等だとか、勤勉さ最強だとか、おかしな価値観が一人歩きしたおかげで、 今の保険制度は、なんだか「無能がお得」な制度として動いてる。

「優秀な」人、医療の現状に理解があって、病気の重症度に理解がある人は割りを食う。 そんな思考を放棄した、「全部やってくださいあと知りません訴えます」なんて捨て台詞残して、 あとは病院お任せで見舞いにも来ない人たちなんかが得してばっかり。

「能力」を査定することは困難だとしても、せめて状況定義が上手な人が、 それだけ得するルールにはなってほしいなと思う。

状況定義に優れた人が、優秀な「触媒」みつけていい結果を招き寄せたり、あるいは状況定義力に 欠けた人なら、株式投資の分散戦略よろしく、「触媒」を複数用意することでリスク回避を図ったり。

リスクテイクは本来、状況を定義する人達の仕事だし、保険制度というものは、 やはりそうした人達の「優秀さ」を哄笑するようなシステムになってはいけない。

医師が結果責任問われちゃうのは、ある意味しかたがない部分があるけれど、 せめて状況定義した人の責任、「触媒」の優秀さを引き出す状況定義を行い得なかった 責任というものだって、叩かれたっていいはずなんだけれど。