疲労する自意識がたどり着くところ

コミュニケーションが可視化する強度の話。 コンテンツ購入に付属する「自閉するコミュニケーション」の販売。 疲労した人たちに「多様な平等視点」を提供するサービスについて。来年はやりそうなものの続き。

コミュニケーションは強度をあらわにする

「プロフェッショナル仕事の流儀」をよく見てる。 司会者である茂木健一郎が、相当残念。

昔は、茂木のことを神だと思ってた。

本もろくに読んでなかったけれど、言葉一つで新しい世界を切り開いた凄い人。 もじゃもじゃ髪のアイコンと、すばらしい経歴と。 「きっとこの人の言葉はありがたいんだ」。信仰してた。

テレビ番組での露出が増えるほどに、神様の「普通の人」っぷりが際立って、 最近はなんだか無残な気分。テレビメディアでは準備もできないんだろうけれど、 やっぱり神様には神様でいてほしかった。

今は番組をハードディスクに録画する。司会者が発言はじめると、 「○木引っ込めよ」なんて、その部分を飛ばす。 あの番組は、すごい人からいかがわしい人まで、 出てくるおっさんの「語り」がすべてだと思うから。

テレビメディアに「ニコニコ動画」みたいなコメント機能が実装されたなら、 きっと面白いことがおきる。視聴するポイントが真逆になる。

「語り」が終わって司会者がコメントすると、画面はきっと「茂木引っ込め」の弾幕で埋まる。 録画してても、きっとその弾幕見るのが楽しくて、早送りしないで司会者を見る。 今まで本質だと思ってた「語り」部分は、恐らくそんなにコメントつかなくて、 むしろその人の「強度の不足」が際立つ。画面を埋め尽くす叩きコメントは、 叩きとは逆に、「茂木健一郎の交換不可能性」を強力に支持する。

「ニコ動」化したテレビ放送は、きっとコマーシャルにも視聴する意味を与える。

便利そうな商品出てくれば、「この製品最悪」なんてコメントが踊るだろうし、 美人のタレントが微笑めば、たぶん画面のあちこちに矢印がついて、「ここ2年前に整形済み」 なんて突っ込みが入るはず。それを見るのが楽しいから、視聴者はきっと、 CM の時にもテレビの前に座る。

「広告効果」それ自体は、きっと落ちない。

CMで突っ込まれるタレントも、広告を作った広告屋さんも、 厳しい業界を生き延びてきたプロ中のプロ。そんな人達は、ある種の「強度」を 持っているからこそ、画面は突っ込みのコメントで埋まって、みんなはテレビの前から動けない。

コミュニケーションの場に集まる無数の目線は、その人が持つ情報量、「強度」を可視化する。

鋭いこと。頭がいいこと。面白いこと。陳腐なこと、つまらないこと、いかがわしいことみたいな ネガティブ要素。方向こそ違え、みんな「強度」というパラメーターを持っている。

無難であることは、無数の目線が集まる空間では、何の価値も無い。 「いい」とか「悪い」みたいな方向要素は、コミュニティから切り離された 個人を前にしないかぎり、意味を失う。

他人との距離を縮める技術が生み出したコミュニケーション空間は、 言葉の「方向」要素を消して、善であろうが悪であろうが、「強度」だけを抽出する。

研究者として鋭い頭脳や発想を持っていることと、全身に刺青を彫っているとか、 髪型が独特であるといったこととは、「強度」の前には等価になる。

「学会」という、社会とは切り離された単一視点から眺めれば、 学者の「見た目」というパラメーターは無力だけれど、 あらゆる価値観を持った人達がコミュニケーションを行う場においては、 すべての強度に意味付けが為される。

物理学者のアインシュタインが、たとえばスキンヘッドに全身刺青の大男であったなら、 きっと歴史は変わっていたのだと思う。

「承認の証券化」と強度

コミュニケーションの場が大きくなると、誰かが発した「一言」は、 状況に応じて、その価値や強度の保有者が変化する。

ローカルな場所で盛り上がった話題は、今ではすぐに別の誰かに補足されて、 もっと強度の高い言葉として、全国区で盛り上がる。

作者が本来想定していた結論は、場よって全く逆の解釈を与えられたり、 笑いどころでも何でもない、些細な言い回しに「強度」を認められて、 想定していなかった盛り上がりかたをされてしまう。

「一言」はたしかにコミュニティの評価を受けるかもしれないけれど、そんな 作者の手を離れた言葉は、その人に何の対価ももたらしてくれない。

野坂昭如の娘だか孫だかが、国語の試験で野坂の文章を出題された。 「このときの作者の心境を述べよ」。 作者本人の正解は「締め切り寸前で大変だった」。 そのまま書いたら、教師は×をくれたらしい。(うろ覚え。。)

文章の解釈は、読者の権利。作者ですら、無数の読者の一人にしかすぎない。 作者であることそれ自体は、解釈の真実性を何ら担保しない。

解釈の問題は、作者である野坂昭如と、問題文を作った国語の先生との、 お互いの「強度」を賭けた勝負。

小説家が持つ強度は凄い。だからこそ、こんな話が笑い話として流通するけれど、 野坂ほどの強度を持てない人が生み出した一言は、もっと強度の高い誰かによって、 ばしば作者の手から奪われる。自意識もろとも。

地域貨幣としての「販売されるコミュニケーション」

地方の商店街は不興で潰れて、残っているのはコンビニばかり。

みんな東京資本。コンビニは便利だけれど、そこに支払った貨幣はきっと、 すべて東京に集まって、地元には戻らない。東京という強度の高い場所は、 地方の都市からお金を吸い込んで、自らの価値をますます高める。 そのお金を支払ったのは、東京とは縁もゆかりも無い誰かなのに。

流動性が高すぎて、強度の高い場所に吸い寄せられる貨幣に対する理不尽さは、 「地域通貨」という考えかたを生む。貨幣から政治機能を取り去って、 貨幣が本来担っていた、便利な交換手段としての力を取り戻そうという運動。

自意識通貨の奪いあいに疲れた人は、きっと「神様」と話がしたくなる。 強度の高い意見が「正解」として一人歩きするのではなくて、 その言葉を創った本人に、「本当のところ、どう思ってたんですか」なんて。

作者自らが神様となって君臨する、小さな世界。

フラット化しすぎた世界で勝負するのに疲れ果てた人達は、たぶんそんな小さな世界の 門をくぐって、神様に対価を支払って、神様に「正解」を尋ねる。

小説とかDVDとか、あらゆるコンテンツのコピーが簡単になった昨今、 コンテンツそれ自体の価値が低下する流れはきっと止められない。 恐らくその代わり、コンテンツを所有した人同士のコミュニケーション、 「コンテンツの購入という現象」は、これから大切な価値を作り出すような気がする。

たぶん、本やDVDの販売特典として、「作者とのコミュニケーション」を 付属させるところが出てくる。本を買うとか、アニメの DVDを購入したら、 そこから特定のページに入れて、一定期間、「中の人」達と会話できるような。

巨大掲示板でのフラットなコミュニケーションとは違って、そこは「強度」じゃなくて、 作者という「神様」が実体化している世界。そこでの会話はもしかしたらヌルいし、 あまつさえコミュニティの規模も小さいけれど、作者との会話というのは、 きっとその人に承認をもたらしてくれる。

その承認証券は、もちろんコンテンツを購入した人達でしか通用しないものだけれど、 それが全国区での「目線の査定」を拒むものであるからこそ、中の空気は穏やかなものになるはず。

数百万部を売り上げるベストセラー作家には無理な話だけれど、せいぜい数万部オーダーの 作家であったり、それぐらい売れれば十分成功といえるDVDとかゲームであれば、 「もう一万部」を上乗せする手段としてのコミュニケーションは、付加価値として 意味を持つと思う。

「神様との空間」は、一定期間で消滅しなくてはならない。 「消え去ること」で初めて、強度は固定して、価値が永続するから。

その空間でのおしゃべりを記録するのは自由だけれど、その場所のログは消されて、 すべては再び「なかったこと」にされる。もちろんコピーは出回るだろうけれど、 オリジナルはもう存在しない。後から何をいわれても、その場に参加した人達には、 「その時そこにいた」という、誰にも搾取不可能な体験が残るはず。

地域貨幣は、全国区から引きこもることで、中央の搾取に対抗する手段。 「場」が消失するから、その通貨は運用不可能だけれど、その代わり、価値は変わらない。

平等の疲れと癒し

「平等」という考えかたは、視点の置き所により、その様相を大きく変える。

コミュニティの外から見れば、「平等」なルールで運営されるコミュニティというのは、 格差社会の弱肉強食ルール。対戦格闘ゲームなんかでは、初心者はコインをいれた瞬間に 瞬殺されるし、ベテランはきっと、それを見て「公平」だと感じてる。「誰もが通ってきた道だ」なんて。

もちろん初心者にとっては、そんなルールは「不公平」極まりない。 同じ対価を支払っているのに、初心者が購入できる自意識は、ベテランに比べると、 比較にならないぐらいわずかな量しか与えられない。

努力が報われない大多数にとって、「平等」というのは、センスあること それ自体が不利になる世界

ロールプレイングゲームみたいな、ほとんど努力が全ての場所は、 恐らくは「センスある人を打ち負かす」要素が欠けていて、癒しを得るには もう少し何かが足りない。

弱い人たちが「公平な」戦いができる場所というのは、たぶん「強いこと」それ自体が 足かせになるようなルールで作られた世界。一部の自動車競技なんかでは、 勝てば勝つほどウェイトを積む決まりになっていて、速い車はシーズン後半になると 重たくなって、不利になる。

これから流行るサービスは、きっと「多様な平等視点」を提供する機能が実装される。

たとえば「はてなブックマーク」の注目エントリー部分は、今まで獲得した 総ブックマーク数が多い人は、それだけ取り上げられにくくなるような重み付けを 行うと、面白いことになる気がする。

今までの「数が全て」ルールでは、もはやいつもの面々以外、あのページの上位を飾れない。 恐らくはそれを理不尽に感じる多数の人たちがいて、その人たちが上位陣を「打ち負かせる」 場所を作れたなら、きっと今まで以上に熱心になる人が出てくるはず。 「やっと公平な評価になった」なんて。

「人気ブックマーク」部分は逆に、従来どおりの数字がすべてを支配する空間。そこにはきっと、 いつもの面々が並ぶけれど、平等視点を増やした分だけ、理不尽な思いをする人は 少なくなる。

まとめ

「来年はこれが流行する」なんて予測は無理だけれど、流行したものを振り返った時、 「ほら云ったとおりの構造が入ってるでしょう?」なんて偉そうに解説加えるだけならば、 自分なんかにもどうにかなりそう。

コミュニケーションが活発になる流れはたぶん、来年以降もますます盛んになって、 その帰結として、こんな構造を持ったサービスが作られるか、従来から流行ってる サービス見直すと、どこかにこんな構造が見え隠れするようになる、はず。

来年もよろしくお願いします