「センスを伴わない努力」を担保する神話

それが宗教であってもゲームであっても、結果につながらない、 センスを伴わない「努力それ自体」の価値を担保してくれる「何か」が作れたら、 恐らくそれは、効率のいい集金装置として機能する。

序列の可視化がもたらしたもの

ゲームセンターには昔から、ごく少数のエキスパートと、 その人達を引き立てる、残り多数の初心者と。

昔はみんなバラバラ。「お互い」なんて意識しないで、ゲームに向かって結果を出した。

ゲームセンターに「社会」が入ってきたのは、たぶん雑誌に全国ランキングなんてものが 掲載されて、お店にもハイスコアランキングが張り出されるようになってから。

対戦格闘ゲームの時代。

「どちらが強いのか」なんて疑問は、対戦すればすぐに答えが出てしまう。 ゲームセンターの社会化はますます進んで、少数のエキスパートはお金を落としてゲームを極め、 それ以外の大多数は、たぶん絶対追いつけないその人達に断絶を感じた。

序列の可視化は、たぶんごく一部のエキスパートを除いた多くの人を、 ゲームセンターから遠ざけた。

努力から得られる成果

「センス」というものは、状況ごとにどうしようもなく存在する。

残念ながら、センスを伴わない努力が成果に結びつくことは少なくて、 努力を投じて得られる対価は、すぐに頭打ちになってしまう。

同じ努力を投じて得られる対価の大きさは、センスを持った人間のほうが、 センスを持たない人間よりも圧倒的に大きいし、センスを持った人の努力は、 その人の能力を天井知らずに高めていく。

実世界ではだからこそ、状況に応じたセンスを持たない人は、 センスを持った人に徹底的に敗北するし、「努力で勝つ」なんてことは不可能に近い。

物語世界では、センスを持ったライバルは、努力した主人公に、しばしば敗北する。 主人公は努力を投じて、莫大な対価を得る。「努力に応じた成果が天井知らず」という 時点で、この主人公のセンスは、ライバルをはるかに追い越しているんだけれど、 物語では、そこの部分は語られない。

「センスを伴わない努力」の担保

いろんな序列が簡単に可視化されるようになって、恐らくは「センス」というものが 一人歩きして大きくなって、「努力」の価値が、相対的に小さくなったのだと思う。

昔ならたぶん、町一番のゲーム名手は、努力に対する十分な見返りがあった。 今の時代、インターネットを見れば、全国ランキングの参照なんて簡単。 自分の努力を「町一番」で担保していた人達も、 今でははるかな頂上を見て落ち込むばかり。

社会の進歩がもたらした「序列の可視化」は、少数のエキスパートが持っているセンスには 報いたけれど、センスを持たない大多数には、断絶をもたらした。 その場所にたくさんのお金をもたらすのは、たいていの場合エキスパートだけれど、 人数ではもちろん、そうでない人のほうが圧倒的に多い。

努力を可視化して、それに何らかの「成果」で報いてくれるようなシステム、 努力をしない、センスを持った人たちが壁にぶつかって苦悩する横で、 努力を通じてそんな人達を追い抜けるルールを持った場所が、これから流行するのだと思う。

それは要するに、一種の「避難所」でしか無いんだけれど、 「努力がセンスを打ち負かす」虚構なしには、 誰も努力なんて続けられない。

「センスを伴わない努力の価値」を販売するシステムは、多くの業界が注目しているし、 これからはそんな商売が流行するんだと思う。新興宗教とか。マルチ商法とか。 恐らくはそこに、「ゲームセンター」が喰い込める気がする。

企画案:AI の教育が必要なシューティングゲーム

必要な虚構は、努力しない天才が壁にぶつかって苦悩しているのを横目に、 凡才が、努力を経由することで天才を追い抜く「権利」を持った世界。

実世界では、センスある人の努力は、投じた資本に応じて報われるけれど、 センスを伴わない人の努力は報われないし、すぐ頭打ちになってしまう。

虚構世界では、努力は公平でなくてはいけない。天才も凡才も、 努力をすれば努力をしたぶん、同じだけの見返りを受けないといけない。 それだとやっぱり天才にはかなわないのだけれど、そこはルールで罠を仕掛けて、 天才には壁にぶつかってもらうようなデザインを作らないといけない。

ロールプレイングゲームはそのあたり、「壁にぶつかる天才」の実装が足りない気がする。 RPGの世界観はあまりにも公平すぎて、今度はそこで長い時間を過ごした人には、 新参者は絶対に勝てないシステム。そこにもたぶん、序列の可視化がもたらす弊害。

デザインは大雑把に、昔ながらのシューティングゲーム。8方向レバーに3ボタン。 操作も従来どおりだけれど、唯一違うのが、AI と人間とが共同して戦うような世界観。 スターウォーズの戦闘機に「R2D2」が一緒に乗って戦うようなイメージ。

人間側のプレイヤーは、従来どおりのレバー操作で自機を操作できるけれど、 自機の半径数ドット以内に敵弾が入ってきた場合、AI はそれを勝手によける。 最初のうちは、敵弾がきたら反対側に避けることしかできないけれど、そんなAI に 「教育」を行うことで、人間のレバー操作に応じた最適な避けかたを学習させることができる。

敵側の戦略は大きく変わる。ドット単位の弾避けなんて機械には簡単だから、 従来型の「弾幕」には、事実上意味は無くなる。自機を殺すやりかたは、 レーザーを幅寄せして、地形で「詰み」にする戦略が主になる。 人間側は地形を読んで、敵側の意図を察して、「詰み」を回避できる場所を探す。 「弾幕」の中は、むしろ安全地帯だから、AIの働きを信じて、 死中に活を求めて弾幕に突っ込んでいくのが基本スタイルになっていく。

「教育」ギミック

プレイヤーは3ボタン。ショットと、「良し」と「ダメ」の3つ。イヌのしつけと同じ。

初期のAIは、空気を読まない。人間は右に行きたいのにAI が弾幕怖がって、 ドット単位で左に寄せられて「詰み」になったりする。

いい動き、悪い動きは、2つのボタンを通じて人間が教える必要がある。 自機のレバー操作と、そのときのAIの反応とが「良し」「ダメ」を通じて重み付けされて、 AIはだんだんと人間の意図を読むようになる。

上手な人は、前半面のこのあたりを力技で通過してしまう。ところがここで「努力」を 放棄してしまうと、後半面、優れたAIの助けがないと絶対に通過できないあたりにくると、 「頭打ち」を体験する。

レバー操作が上手でない人は、初期ステージで苦労する。ここで苦労しておくと、 AIの「しつけ」が行き届いて、後半すごく楽になる。前半を安直に進めすぎると、 後半ステージになって、構ってもらえなかったAIにしっぺ返しを食うことになる。

ゲームバランスうまく設定できれば、「努力しなかった天才を、 努力した凡才が追い越す」ことが実現できる気がする。

「しつけかた」にもセンスがでる。イヌのしつけと同じで、たぶん「ほめてしつける」動きと、 「しかってしつける」動きが作れるはず。 あえて「教育的に」弾幕に突っ込むプレイスタイルだってありだし、 最初から大局観持って、最小限のしつけでいくやりかたもいいのかもしれない。

このあたりだってもちろんセンスが問われてくるけれど、対戦格闘ゲームに比べれば、 イヌのしつけはセンスに対してずっと寛容。

「ダメな子」はかわいい

AIのデータは、もちろんプレイヤーごとに引き継げるようにする。最初はきっと失敗ばかりだろうけれど、 しつけが行き届いてくると、たぶん教育ボタンの「良し」を押す頻度がだんだんと増えてきて、 プレイヤーはより楽に進めるようになっていく。

犬飼ってると、「ダメな子がかわいい」をよく実感する。もちろん最初から賢い犬飼うと、 また違った感想持つのかもしれないけれど、仔犬の時点でアホな子だったのが、 だんだんと落ち着いてきて、しつけられていく過程は本当に楽しい。 もちろん最初の頃は大変なんだけれど。

ダメな子を何とか育てて、そのうち頑張って後半面、 グラディウスⅡの高速スクロール迷路を弾幕だらけの4 倍速ぐらいにしたステージを、 賢く育て上げたAIと力をあわせて突破できたら、きっと楽しいと思う。

たぶんどこかの過程で、プレイヤーはAIに「感情」を見出す気がする。

感情はたぶん、相手の振る舞いを観察した自己が、対象に対して投影するもの。 AIの振舞いは基本的にランダムだけれど、プレイヤーとは同じ状況を共有している。 「教育」を通じて思い入れを感じたプレイヤーは、たぶんAIが喜んでるとか落ち込んでるとか 頑張ってるとか、そこに感情を見出して、ますますゲームにのめりこんでいく。

飼い犬が「心配そう」にしたり「笑った」りするのと、このへん同じ。

ゲームの冒頭、プレイヤーをアシストしてくれるAI に、プレイヤー自らが 「名前」を与えるところから関係が始まる。

名前をもらったアシスタントは、そのうち主人公のパートナーとなって、 ゲームセンターで主人の帰還を待つ。

それはもちろん虚構なんだけれど、「努力は必ず報われる」なんて神話を紡ぐ虚構は、 恐らくはいろんな人からお金を引っ張れる。