文章の空力特性

強度の高い文章発信に必要なダウンフォースの話。 空を飛ぶ小説のお話。 文章発信の力学とデザイン、あとは「かっこよさ」の感覚について。

「離陸」との戦い

「強度」を持たない文章は届かない。ところが配慮なしに強度ばっかり増した文章には、 必ずといっていいほど「上から目線」の匂いがついて、読者の共感を失ってしまう。

「強度」と「共感」とは、しばしばトレードオフの関係にある。

「上から目線」は、言葉に強度を持たせたときの宿命みたいなもので、 みんなたぶん、言葉の強度を高めながら、何とかして言葉が「離陸」しないよう、 文章構成とか言い回しとか、必死になって考える。

「離陸」との戦い。自動車競技で古くからある考えかた。

速度を競う自動車競技は、それが飛行機ならば、とっくに離陸するような速度を要求される。 自動車はそれでも地上を走らないといけない。F1 グランプリなんかでは、昔から 車が空を飛んでしまう事故が何回かおきていて、時には空飛んだ車が観客席に 着陸して、大惨事を引き起こす。

離陸はあってはならないけれど、遅い車は勝てない。低い抵抗と、大きな「ダウンフォース」。 様々な空力部品に要求されるお仕事。

空力パーツは、速度をダウンフォースに変えて、車を地面に貼り付ける。 今のF1 なんかだと、時速300km も出した競技車は、 理論上は天井を走れるらしい。速度が生み出すダウンフォースはあまりにも 強大で、その力はもはや、車体重量を越えているから。

強度の高い文章を書く人達もまた、自分の文章に様々な「空力部品」を付加することで、 文章の強度を高めつつ、自ら書いた文章を、何とかして読者の高さに「貼り付け」る。

言葉が「離陸」してしまうと、コントロールを失って飛び出した言葉は、blog 炎上みたいな 大惨事を引き起こす。

文章を書く人達は、みんな立ち位置が違うから、自動車競技みたいにお互いの比較は できないけれど、みんな自ら科したルールの中で、いろんな空力パーツを自社開発している。

強度と共感とを両立させて、文章にダウンフォースを付加する空力部品。 空力甘くて強度ばっかり高い文章は「離陸」するし、空力パーツ付けすぎた文章は、 今度は抵抗が高すぎて、強度を失ってしまう。

他人様の文章を、そんな目線で見るとけっこう面白い。

「飛ぶ小説」のお話

いい小説は、きっと空を飛ぶ。

読んでいてなんだか想像が広がったり、本筋と関係ないおしゃべりを、 登場人物が勝手にはじめてみたり。読者の現実認識が揺らいだり、 物語世界に取り込まれてしまったり。飛ぶ感じ。

小説文章にもまた、空気と同じような力学があるんだと思う。

力学的な裏づけの無い小説は、それが「飛びそう」であっても、飛ぶことはない。

文章の見た目とか、設定の派手さなんかと、実際に読んでいった時の驚きの深さとは、 しばしば異なる。あれこれ複雑な設定詰め込んで、期待して読んだその実、 読み終わったときには肩透かしを喰ったような感想しか残らない本もあれば、 状況設定それ自体は地味なのに、読み込めば読み込むほどにいろんな裏設定が透けてきて、 作者がどこまで深く考えているのか、自分の理解の浅さにくやしさを覚えるような本もあったり。

どんなにすごいデザインが行われている飛行機であっても、それを実際に飛ばしてみると 案外たいした性能が出せなかったり、「似たようなデザインだ」なんて先入観で侮ってたら、 実はすごい性能で驚いたりするように、小説もまた、「早そうな」デザインが行われた小説と、 本当に「速い」デザインが行われた小説とがあって、それは恐らく、実際に読者に読まれるまでは、 本当のところは分からない。

飛べない小説は、やっぱりなんだかつまらない。それを無理やり飛ばそうとして、 壮大な設定をあと付けしたり、登場人物にとっぴな振る舞いをさせたりすると、 今度は気流の剥離を生じて、失速したその小説は墜落してしまう。

翼型の最適解はわずかしか存在しなくて、おまけにちょっとでも寸法間違えると、 その効率は落ちてしまう。「飛ぶ」小説の世界設定はしばしばありがちで、 同じような世界観を共有する「飛べない」小説との差異は、 感覚できないぐらいにわずかなのだと思う。

アイルトン=セナ が亡くなってから10余年、F1 のデザインは、 当時から今までほとんど変化が無いとも言えるし、全く別物になったとも言える。 車輪 4 つでミッドシップ、サイドラジエターにフラットボトムはみんな同じだけど、 ほとんどすべてのメーカーが本格的な 風洞実験設備を導入するようになって、車には無数の細かな改良。

マクロには、その差はやっぱりごくわずか。細かいところは、恐らく全く別物と言っても いいぐらいの変化。見えずらいけれど「 効く」デザインが随所に盛り込まれた結果、 F1 のデザインは、何となく生き物みたいな、機械離れした印象の変化を生じた。

力学はデザインを行わない

最初から「正解」をデザインするのは難しいのだと思う。

1999 年のルマン、優勝候補なんて言われた Mercedes CLR-GT1 は、 競技開始早々に「離陸」事故をおこしてリタイアした。

名門メーカーの肝いりで作った車。だからこそ事前の準備は万全で、 風洞実験も、テスト走行も十分に行った上で競技に参加したはず。それでも飛んだ。

見る人が見ると、そのデザインが「効く」のかどうかは、ある程度まで分かるらしい。 その年の競技開始前、デザイナーの由良卓也は、「あの車はなんだか危険だ」なんてコメントしていて、 危険と言われたメルセデスは、本当に空を飛んだ。

たぶん、最初はやっぱり「デザイン」であって、流体力学は、デザインされた結果を 検証する役には立っても、力学それ自体が正解をデザインすることは難しい。

すべてはきっと試行錯誤。

決められたルールの中で、センスを持った人が「速そうな」車を考える。 空力部品とか翼型とか、たぶんいろんなアイデアが出るのだろうけれど、 それが実際役に立つのかどうかは、実際に走り出すまで、本当のところは分からない。

デザイナーが描く「かっこよさ」と、力学的な裏づけとは車輪の両輪なんだと思う。 デザイナーが突っ走ってアイデア出して、それを空気力学が検証したり、 競技それ自体が検証したり。力学それ自体からは、早い車は生まれてこない。 そのあたり、作家が文章書かない限り、物語が生まれないのと、きっと同じ。

高性能が伝わるルール

文章にも恐らく、「レイノルズ数」みたいな概念があって、小さな物語であればあるほど、 空気の粘度を無視できなくて、流れの制御は難しくなる。わずかな空力パーツの不整合は、 簡単に気流の剥離を生じてしまい、失速した文章は力を失う。

最近読んだ小説「人類は衰退しました」は、ごく小さな物語だけれど、 文章の末端に至るまで、「気流の剥離」が微塵もないような安定感。 恐らくは例によって深い設定が隠れてて、文章をちゃんと読んだら「飛べる」のだろうけれど、 そのあたり作者の美意識なのか、凄さが巧妙に隠蔽されているような印象。

美学はしばしば、性能の受容を阻む。

10 年ぐらい前、パリ=ダカールラリーシトロエンと三菱とが争ってた頃、 プロトタイプカーを使ったワークスチーム同士の争いは、最終的にシトロエンが勝利した。

シトロエンが作ってきたのは、胴長幅広、巨大車輪の化け物みたいな車。三菱の人たちは、 それを見て「自分たちの美学では、あれを凄いとは認めても、どうしても美しいとは思えなかった」 なんて告白していた。

たぶんすごく勇気のいる告白。三菱ワークスの人達は、 相手の速さを認めたうえで、明らかに速度で優れたそのデザインに、 自らの美学では測れないものを見てしまったわけだから。

ルールもまた、速さが伝える凄さを隠蔽する。

本当に速い自動車競技、時速400km が当たり前だった頃のルマン24時間は、 なんだか「時速400kmまでだせる普通乗用車」の競技。グループC カーは の速さはたしかに圧倒的なんだけれど、デザインはどのメーカーも似たような形をしてて、 F1 なんかに比べると華が無かった。

F1 は、とりあえずかっこよさが分かりやすくて、その上早い。 でもたぶん、空力的には相当無理してて、デザイン上の制約がないなら、 最適解は他にあるはず。

絶対的な速度域と、分かりやすさとを両立させるのは難しくて、 分かりやすさを目指すなら、「凄さが伝わる」ルール設定が大切なんだと思う。 文章の場合、「ルール」に相当するものは、恐らくは作者の立ち位置であったり、 小説のジャンルであったり、想定する読者層であったり。

「人類は…」は、そのへん絶対的な速度を追求して、ルールから自由になって、 分かりやすさはたぶん、あえて放棄したような印象。 ざっと読みして、たぶん「飛べる」なんて感想持ったけれど、解析的に読み込んでいくと、 きっと相当面白いことが詰め込まれてるんだと思う。