弱さを運用する文化

今に始まったことじゃないけれど、弱い人が強く振舞うことが増えた。

この流れを生んだ原因が、未だによく分からない。どうすればいいのかだけは分かってる。 もともと「強い」側に立ってた人達が、本当に強くなればいいだけの話。

でもそれやると血の海だから、できればそんなことしたくない。 穏やかに時計の針を戻すやりかた考えるんだけど、分からない。

妥協の結果として行き着いた正しさが、いつのまにか目標として目指すべき何かとして 一人歩きをはじめて、世の中がだんだん「正しさ」に支配される、そんなお話。

大学のこと

父親もそうだったけれど、大学の教官というものは、 みんな個室を持っていて、学生を個室に呼び出しては説教したり、 夜通し酒飲みながらおしゃべりしたり。あるいはまた、 自分みたいな子供はときどき、そんな部屋で遊んでた。

今ではもう、役職付きの先生がたは、絶対に一人になれないらしい。

学生と教授とが、同じ部屋に 2人きりになる。中は見えないけれど、「2人」には証言者がいる。

こんな状況を作られてしまうと、もうその時点で言い訳できなくて、 あとは「試験通して下さい」とか、「来年の単位よろしく」だとか、事実上やり放題なのだという。

もちろん、そんな事例は全国で数えるほどしかないけれど、「強い人達を取り巻く空気」 というものは、もう昔みたいな曖昧さを許してくれない。

飲み会に呼ばれるのも恐怖なのだという。

教授なんかが飲み屋に入った時点で、その飲み屋さんで飲むすべての学生について、 教授に管理責任が発生する。誰か学生が一気飲みして倒れたら、 間違いなく「その場にいた偉い人」に係累が及ぶ。体育会の顧問をしている先生がたも、 今では飲み会は原則不参加。参加するときは本当におっかないのだとか。

昔話

今50台の先生がたが学生だった頃は、単位なんか無茶苦茶だった。

試験落とされた学生が教授室に呼び出されると、バケツとぞうきんを渡される。 教授室の清掃だとか、あるいは教授の車を洗車するだとか、そんな「奉仕作業」と 引き換えに、試験が通ったりしたそうだ。

我々の頃。今から15年ぐらい前は、さすがにそこまで適当ではなかったけれど、 教授は良くも悪くも強い存在で、学生は弱かった。 学生はやっぱり落とされて、野郎4人ばかり集まっては、エレベーターの中に教授を軟禁して、 「先生が通すと言ってくださるまで、我々はここを動きません」なんて。 それで何とかなった時代も、昔はあった。

あいまいさを許さない空気がだんだんと出来上がってきたのは、もう少しあと。

「大学は資格試験だから、みんな60点取れば、みんな合格するんだよ」

受験競争終わって、先輩からこんなこと言われて感激したのも今は昔。

試験前になると、みんなでノート交換して、試験対策プリント作って共有。それ読めば、 満点には程遠いけれど、それでも何とか合格できる。「それ以上」を目指すなら、 それはその人の度量次第。こんなルールが代々続いて、 それなりにうまく廻っていたのが「試験対策委員会」。

学生にとって便利なはずの、こんな「委員会活動」に、当の学生からクレームが入ったのは、 自分が卒業してすぐぐらいのこと。

「試験対策プリントを配られると、実力どおりの序列がつかないからおかしい」

こんなクレームが「勉強が好きな」学生から大学当局にねじ込まれた。もちろん 学生の本分は勉強だから、大学当局がこんなクレームを無視するわけには行かなくて、 試験の形式を変えることになったらしい。

落ちる学生が増えて、「実力どおりに」留年する学生が出てくるようになって、 今度は学生を落とした教室に、強力なクレームを入れる人達が出てきた。

当局はまた対応して、試験は今ではマークシート方式。 どの問題を、どの教室が作ったのかは公表されなくて、 試験の結果は合否判定だけ。落第した人も、自分のどこが悪くて落ちたのか、 原則公開されなくなったらしい。恐らくは全国どこも、大雑把にこんな流れがあるはず。

弱さの運用が生み出したもの

やっぱり鍵になるのは「弱者」。

最初はみんなであいまいに。「奉仕作業」に従事する学生であったり、 あるいはエレベーターで教授を軟禁する学生なんかは、それでもきっと、 ある人達から見れば、「強者」の側だった。

この頃の「弱者」というのは、たぶんまじめに勉強して、コツコツ試験に通った学生。 この人達の誰かがきっと、「まじめさが報われない」なんて思ったのが最初なんだと思う。

「まじめさが報われる時代」が来て、今度はたぶん、まじめさはさておき、 結果を出せなかった人が弱者になった。弱者は弱さを運用して、 そのつど断絶は深まって、過程がみんなから隠蔽される流れができた。

何となく悪い方向。多様性減らして、みんなが同じベクトルに収斂するような、 不吉な流れ。何が悪いと断定はできないし、その流れはたしかに いろんなものを「正しく」していくんだけれど、いやな予感。

集団の中で一番割り喰ってる人が正論吐くと、どこにも大体こんな流れができる。

目的が手段になるとき

最近、患者さんの家族から病棟に当てて、いきなりのクレーム電話をいただいた。

あんまり納得いかないからご家族に来ていただいて、何がいけなかったのか尋ねたら、 「クレームつければ入院期間延ばせるから」なんて返事。あんまり悪びれてなかったのが、 逆にすごく怖かった。

仕事柄、クレームはやっぱり多いし、みんな理不尽で、面罵されて落ち込むことなんてしょっちゅう。

それでもクレームは、その「理不尽さ」が救いになっている部分が少しだけあって、 みんなクレームをつけることそれ自体が目的になっているから、やり過ごせばそれでおしまい。

クレームを通じて何かを得たい人というのは、今まではやくざみたいな「プロ」ばっかり。 この人達のクレームというのは、クレームというよりも交渉言語だから、それも一応、どうにかなる範囲。

クレームというのは要するに、今まではものすごく感情的か、あるいはものすごく冷静な人達、 どちらにしても標準偏差から外れた人達の道具だったはずなんだけれど、 それがいよいよ「カジュアルに使える道具」として病院に登場してきたかんじ。

うちの地域は田舎の小さなコミュニティだから、こんな人達はまだまだ例外だけれど、 都市部ではきっと、こんな「カジュアルなクレーム」が増えてきて、みんな困ってるんだと思う。

標準偏差のとりかたで閾値は異なるけれど、たぶんどこかのタイミングで、 今までは「例外処理」でこなしてたプロセスが増えすぎて、 システム全体に修正を加えないといけないときがくる。

それがたとえば、試験制度の変化であったり、結果通知の匿名化といった流れ。

医療の場合は何となく先読めて、複数主治医化だとか、お話するときには 弁護士立会いだとか、入院したとき「何を治せて、何を治せないのか」を はっきり定めた契約書だとか。

もしかしたらそんなやりかたをこそ望んでいる人がいるのかもしれないけれど、 やっぱり多くの人は、そうなったら不自由なんだと思う。

人々の官僚化だとか、マスコミがすべてを悪くしたとか、 それは状況記述であったり思考停止であったり、何となく、 もっと奥のほうに何かがある。「個人が属するコミュニティが、 単純に大きくなりすぎた」というのは、たぶん一部正解なんだと思っているけれど、 じゃあ封建主義時代万歳かと言えば、それもちょっと違う。

システムが腐る前に、時計の針を戻せたらいいのだけれど。