メディアの正しさについて

電子カルテ話の続き。紙であったり写真であったり、 情報を記録するメディアが進化する方向の正しさについて。

チープメディアの正しさ

チープメディアの復権が来る気がする。ラジオとか本とか、あるいは壁の落書きみたいな。

そのメディアに接することはごく簡単で、メディアが持つ情報量は少なくて、 可搬性に劣っていて、拡張性なんて無いに等しいメディア。

帯域を広く取りすぎたアンプが、しばしばノイズを拾って発振するように、 ハイパーリンクを張りすぎたWeb 文章が、しばしば読むに耐えないように、 「やりすぎ」は必ず害悪をもたらして、一方で「正しさ」を求める倫理は、 なぜか「やること」を支持したりする。

掃除ロボット「ルンバ」が進化した先には、「掃除のいらない床」を 想像すべきであって、ホウキとチリトリを抱えた「アシモ」を 発想してはいけない。不便なだけだから。そんな「正しさ」はありえないのに、 メディアについてはなぜか、同じような錯誤がそのまま進む。

紙カルテで十分回っていた職場は、あと10年もすれば、否応なく電子化される。

正しいやりかたとチープなやりかた

近くの公立病院の投資予算が8 億円。これでも多分やすいほう。

電子化されることで、医師は座りながらにしてカルテを読めるし、 その場でいろんなオーダーを出せる。医療行為と事務仕事とは、 途切れることなく、同時に進行させることもできる。

「電子すごい」なんて人達が語るのは、こんなメリット。

総電子化なんて「正しい」やりかたしなくても、たぶん同じ機能はもっと安価に実現できる。

現行の現行の紙カルテをベースにして、みんなが携帯電話を持って、i モードの回線借りて、 あとは掲示板システムとか、google カレンダーみたいな無料サービス駆使する。 セキュリティなんて無いに等しいけれど、少なくとも8億円はかからない。

やりかたは安っぽいけれど、メリットはそれなりに多い。

いいかげんなオーダーでも、人を介する機会が多いから何とかなるし、 携帯電話は型落ちの無料携帯もらってくれば、回線のアップデートも安価。 システムの「本体」に相当するのは、 要するに携帯電話の使いかたと、無料サービスの使いかたとをまとめた手引きだから、 コピー本作って配れば、すぐにでも立ち上げられるはず。上手くいかなければ、 その「手引き」をゴミ箱に捨てるだけで、システムを元に戻せる。

「病院の門をくぐってカルテがでるまでの時間」というのは、「正しい」電子カルテの ほうがが早いんだけれど、それは案外意味がない。

小さな病院だと、受付済ませてカルテが出るまでの時間は、 紙カルテで 10分。電子カルテだと数秒。

ところが外来の机はすでにカルテの山だから、待ち時間は結局 1時間。診察数分。何も変わらない。 電子化は、たしかにシステムのある部分を最適化するけれど、 システム全体の速度には、ほとんど影響を与えられない。

初診の患者さんは最悪。ID 作って情報打ち込んで、カルテが上がるまで 15分ぐらい。 ID番号が決まるまでは何もできないから、医師はその間、何もせずに待つしかない。 救急外来で患者さん受けて、点滴すら出来なくて、ひたすら待つだけ。

先に点滴しちゃうとタイムスタンプずれて、コストが取れなくなってしまうから。

正しさの代償として失われるもの

紙カルテだと、とりあえず紙さえあれば、何でもできる。 たとえトイレットペーパーしかなかったとしても、ボールペンでオーダー書いて、 あとから出来上がってきたカルテに貼り付ければ何とかなる。融通が効く。

最適化の代償として失われるのは、しばしば「融通」で、 これが失われた「正しいシステム」は、緊急の時にとんでもないことをやらかす。

チープメディアが持っていた自由さ、とりあえず紙と書くものさえあれば仕事ができるという信頼性は、 たぶんあんまり「ありがたい」なんて思われていない。しょせんただの紙。

最適な現状が上手に回っている理由の多くは、「ズルができる」という部分なのだと思う。 規則違反を受容するだけの余裕みたいなもの。それはたいていの場合「正しく」は 見えなくて、むしろ誰かの目には改良すべき対象として写る。

「間に合っている」場所を最適化するのは、いずれにしてもよほど慎重にやらないといけない。

正しいデバイスは隠蔽される

「書く」という行為において、紙は永遠に受動態の存在である。 紙は自ら何かを「書く」ことはない。紙は「書かれる」存在である。 「書かれる」という行為において、紙はおのれを紙たらしめる。

「ユーザーの振舞いによって、はじめてその存在を規定される非存在」というのが、 メディアが目指すべき進化の、一つの方向性なのだと思う。

存在を主張するデバイスは、たいていの場合、そのメディアの発展を妨げてきた。 壁掛けテレビにしても、小型化を追求したWii にしても、みんな隠れたがって、 隠れることで成功した。

紙一枚で済んでいた記録媒体が、気がついたら厚ぼったい「本」になって、 さらにそれが、病棟に鎮座するパソコンに。狭いナースルームには、 パソコンはまだまだ大きすぎる。

機能は分割・外部化する

今遊び場にしている twitter は、非常に貧弱なサービス。できることといえば、 短い文章書いて、投稿するだけ。改行すらできない。

どこか「改良」を加えたくなるサービスだけれど、twitter にフォント指定機能をつけたり、 画像を貼れるように「便利」にしたら、たぶんユーザーが減るような気がする。

機能の外部化というのは、あるいは最適化のやりかたとして正しいのだと思う。

データベースソフトを止めて、書類の整理に google を使うとか、 twitter では文字によるコミュニケーションに徹して、「表現部分」はリンクをはって、 他のサービスに外部化するとか。検索が死んでも原本はローカルに残るし、 「表現」を担保していたサーバーが落ちたところで、基本のコミュニケーションは、 何事も無かったように続く。

ただの診療記録にしかすぎなかったカルテが電子化されて、 オーダー伝票の役割、契約書の役割、証明書の役割、会計ソフトの役割を、 一つのシステムにインクルードしていく。リンクのどのレベルでのトラブルも、 システムを通じて診療そのものが不可能になるトラブルに発展しうる。

こんな「進歩」はどうみても間違っている。

「紙一枚」への回帰

カルテはたぶん、一枚の紙に回帰する方向が正しいのだと思う。

何か書く必要が生じたら、とりあえず紙を引っ張り出して、何でも書く。 診療記録でも検査オーダーでも紹介状でも、とりあえず書く。 他の病院から来た紹介状なんかは、そのまま紙として使う。

書いたものは、片っ端から画像情報として取り込んで、書いたユーザーは、 原本をどこか箱みたいなものに放り込んで、それ以降のことは忘れる。

「CT」と書いたらコピーされたカルテが CT 室に電送されて予約が組まれるし、 「血液検査」と書いたら、カルテは検査室に電送される。

何するにも一枚の紙。フォーマットなんかは自由。そこから意味を読み取ったり、 それをデータとして保管したりは、全部バックグラウンドの仕事。

どうやってこれを実現するのか、想像もつかないけれど、 そのへんはプログラマの人たちが魔法使って頑張れば、そのうち何とかなるんだろう。

記録すること。オーダーすること。保証すること。同一性を担保すること。 そんな様々な機能は分割されて、それぞれ別のスレッドで走る。統合されないやりかた。

「書く」こと一つから、いろんな機能が走り出すけれど、ユーザーから見えるのは、あくまでも紙一枚。 電子カルテはこんなシステムになってほしい。

今の電子カルテシステムが志向する未来図、ユーザーに正しい振る舞いを強要する やりかたは、やっぱり何かずれていると思う。