「暴走する正しさ」を止める論理

妥協の産物と思われたやりかたが、実は最適解だったりすることは、 実世界ではたぶん、けっこう多い。

場当たり的なやりかたは、たいていの場合うまくいく。うまい具合に廻っていたのに、 誰か偉い人が「もっと正しいやりかた」を提案すると、 そのやりかたは軽快さを失って、効率が悪くなってしまう。正しいはずなのに。

「正しいやりかた」は、まずいやりかた。現場はたいてい、そのことをよく理解しているのに、 「今が一番いいんだ」ということをうまく説明できない。

「正しさ」を掲げて、最適目指して走りだした原理主義者を止めるのは、本当に難しい。

妥協の産物と真正品と

  • ログの記録が可能なリアルタイムチャット「Linger」は、 疑似リアルタイムの「twitter」よりも少ないユーザーしか獲得できなかった
  • F1が自然吸気エンジンに移行した初期、ホンダは V10 エンジンで成功した。彼らにとって、V10 はV12 エンジン登場までの過渡的なものだったけれど、V12 になってからのホンダは調子を崩した。 最初から V10 のまま開発を進めたルノーは、その後勝利を重ねた
  • 疑似マルチタスクOS の Win98 は、よほどの高信頼性が求められるような環境でなければ、 今でも普通に使えたりする。圧倒的に貧弱な環境であっても、真正マルチタスクOS のWinXP に 比べても、むしろ快適に動作する

「疑似」にはときどき、「真正品」に無い良さがあって、それはもしかしたら、 真正品になると失われてしまう。

「疑似」の状況で、何か「いいな」と思えたときは、 「真正品ならもっといいんだろうな」という考えを持つのは危険かもしれない。

「妥協の産物だけれどとりあえずうまく廻っている状況」というのは、たぶんそれこそが 最適か、少なくとも最適に近い状況を作り出している。妥協とか、擬似的なやりかたとか、 工学的にベストを尽くしていないような、そんな状況をもっと「正しく」しようと試みたとき、 恐らくその先に最適は存在しない。

「状況をうまく回している何か」は見えない

感覚された正しさは、しばしば状況を説明しない。

四角いパッケージで売れなかったアイスクリームを丸いパッケージにしたら売れ出して、 ユーザーに理由を聞くと、みんな「おいしくなったから」なんて返答。中身は替えていないのに

ユーザーが感覚していることと、実際の振る舞いとの解離の問題は、 広告業界が抱える古くからのテーマ。アンケートに誠実に答えるユーザーを いくらたくさん捕まえても、その人達の「誠実さ」と、状況を説明する真の理由とは、 しばしば全く相関しない。

たいていの場合、本当の理由は目に見えないし、感覚できない。

うまくいっている状況というのは、本当はそれ自体が「正しさ」を担保していて、 目に付く妥協とか、あるいは欠点みたいなものでさえ、状況をうまく回すのに 欠かせなかったりすることがある。

状況もまた、一種の生態系。たいていの外乱に対して、生態系はほとんど影響を受けない 強さを見せるけれど、生態系を維持する「要石」、しばしばただの虫であったり、 雑草にしか見えない草が失われた瞬間、生態系はあっけなく崩壊してしまう。

うまくいっているものを改良するのは、だから本当は非常に難しくて、 「正しさ」原理主義者が力で進めて、それが本当の改良につながったケースは少ないはず。

電子カルテのこと

うちの業界で問題になっているのは、何といっても電子カルテ

紙カルテと伝票システムで何の問題もなくまわっていたところに、 電子オーダーシステムが入って、さらに電子カルテシステムを入れましょう、なんて話。

みんな嫌がっているんだけれど、これがないと国の認定病院になれないから、 今のところ導入は規定路線。

電子化すると、データを一瞬でアメリカに送れるとか、 患者数が 100 万人になっても大丈夫とか、夢の多い話。

残念ながら、今の病院 20年の歴史で、そんな機会は一度もない。

隣の公立病院が、最近電子カルテを入れた。8 億円かかったらしい。 みんなキーボードが打てなくて、端末の数も制限されて、病棟回せなくて大変らしい。 外来も滞って、手術が回らなくなって、うちの施設に紹介される患者さんがやたらと増えた。 病院の「格」で言ったら、むこうのほうが圧倒的に上なのに。

公立、私立を問わず、電子化というのはもう避けられない流れ。いろんなところで悲劇が起きて、 「あれ入ったら終わるよ」なんて、同業者どうしでは常識以前で語られてるのに、 流れを止められない。

「電子情報のほうが正しい」なんて、原理主義的な政府の方針。

「正しさ」でいったら、たしかに手書きの伝票よりも電子情報のほうが正しそうなんだけれど、 それを「正しく」することが、状況全体を「正しく」するのかどうかは、やってみないと分からない。 現実問題、開業の先生みたいな施設はともかく、中規模病院で電子カルテ導入して、 「売上げ増えてウハウハです」なんて話はでてこない。

電子化すると、どう考えても効率が落ちる。医者の顔が暗くなる。ナースも事務も、みんな暗くなる。 病院も患者さんも、全国的にみんなが不幸になっているのに、 紙カルテ派は電子派の「正しさ」を覆せない。

多分本当の最適は、伝票システムと電子オーダーのハイブリッドなんだと信じているんだけれど、 そもそも紙カルテの何が良かったのか、紙と一緒に失われてしまうのはなんなのか、 自分にもうまく説明できない。

「暴走する正しさ」を止める論理

正しさを進めようとする原理主義者に対して、伝統派はしばしば言葉を返せない。

正しい戦略は議論じゃなくて、たぶん「売上げ落ちたよね ?」の一言なんだと思う。結果中心主義。

工学的な正しさはさておいて、大切なのはその正しさがどう評価されたのか、 実際のところ正しくなって、売上げとか、生産効率だとか、状況が廻った成果に相当するものは 果たして増えたのかどうか。

結果中心主義を唱えだすと、「対価につながらない学問には、じゃあ意味は無いのか?」なんて反論。

どちらが正しいのか、未だによく分からないんだけれど、 局所最適を全体最適につなげるやりかたが見つかるまでは、 結果につながらない思考とか、学問には、 やっぱり「意味がない」という立場のほうが、より「正しい」のだと思う。

じゃあ法律はどうなのか

最適解は「賠償金 (or 和解金)こんだけとれたよね?」の一言なんだと思う。結果中心主義。 医学的な正しさはさておいて、大切なのはその正しさがどう評価されたのか、を全てにする考えかたでOK ?

。。。。twitter でこんなことを呟いていたら、上記のようなツッコミをいただいた。

技術分野の結果中心主義を裁判に置き換えたなら、たしかにこんなやりかた。 個人的には、これは「正しくない」し、心情的に許せない。

技術者の正義とか、工学的な正しさなんかの欺瞞をあげつらって喜んでる一方で、 「法律の正義」は無批判に信じて、正義を運用しようとする人達に憤る。 これはダブルスタンダード

まだ修行が足りない。