もの言う国民が集まる国

たとえば「産科医が幸せに微笑む社会」はもう来ないだろうけれど、 「産科医が笑顔を作らざるを得ない状況」を作り出すことはできる。

医者から笑顔が消えて、僻地医療の現場には人がいなくなってしまったけれど、 今さら医者を笑わせる制度を作っても、たぶん現場は戻らない。

「あるべき状況」の定義と、それを実現する構造設計のお話。

構造変化を拒否する何か

産科とか小児科、あるいは僻地医療。折れた心は修復できないけれど、 「問題を強引に解決する構造」は作れる。

僻地の病院にはいつも元気いっぱいの産科医があふれかえって、 夜中であっても、医師は笑顔で患者を迎える。もちろん予算は現状のまま

たとえば「あるべき医療」をこんなふうに定義するなら、必要なのは「人数配分」と、 「元気」と「笑顔」。

人数配分の問題は簡単。首都圏で働く医師であったり、 あるいは生き死ににかかわらない科で診療に従事する医師には 極めて重い税を課せばいいだけの話。

生き残った眼科とか皮膚科の施設はものすごく混雑するし、 開業医の先生がたは全員潰れちゃうだろうけれど、そんな人達は僻地を目指す。 そこでしか生き残れない状況を作れば、従うしかない。

「医者の元気」は、受診抑制で担保する。受診料を単純に値上げして、 値上げぶんは国の総取りにすれば、予算の問題も多少解決。

「笑顔」もまた構造の問題。笑えなくても「笑わざるを得ない状況」は、十分作れる。

診療報酬の支払い先をどこにするのか、その決定権を患者側に持ってくるなら、 患者さんを不機嫌にした医師は、診療報酬をもらい損ねる。 営業用だけど、みんな笑顔になるはず。

極論だけれど、いずれにしてもこれは、良心とか道徳の問題ではなくて、構造の問題。 こんな素朴で乱暴なやりかたではなくて、もっとエレガントで衝撃の少ないやりかた、 きっといくらでも考えられる。

今の政府や行政組織がハンドリングできる範囲の変革で、 そんな「構造」を作ることは不可能ではないし、 世論もたぶん、それを支持する。

医師はもちろん猛反発。自分だって嫌。

こんな「改革」のあおりを喰えば、開業医の先生がたはみんな潰れちゃうだろうし、 厳しい現場に必要な「経験あふれるベテラン」は、要するにそんな人達を想定するわけで。

それでもしょせんは多数決。医療従事者が何叫んだところで、世論は変わらない。

「こんな状況にしたい」なんて民意があって、 もしかしたら大マスコミ様もそんな民意を後押ししていて、 政府の人達にはたぶん、それを実現するだけの能力が十分にあるのに、 今はなぜか状況が動かない。

誰も舵を切れない。構造変化を止めている「何か」というのはきっと、 ただ単純に「正しくないから」とか、「道徳に反する」なんて、 そんな漠然とした空気の共有なんだと思う。

制度が先か道徳が先か

たぶん生得的な道徳なんて存在しなくて、社会制度が最適な振舞いを定義して、 その振舞いかたに慣れた多数派が、あとからそれを道徳と定義した。

ものすごく強引な医療制度改革。もし実行されたとしたら大混乱だけれど、 そんな状況が何十年も続くと、僻地に出向いたり、笑顔を振りまいたりといった医師の振る舞いが、 医師自身にとってもまた、たぶん「道徳心から出た、心から」のものへと変化する。

喧嘩は疲れる。きっと制度に従わされていると考えるより、 自らそう振舞っていると考えたほうが楽。道徳とか正義はきっと、あと付けで生まれる。

制度が生み出した結果でしかない道徳は、そのうち「信じるべき目標」へと 一人歩きをはじめて、今度は恐らく、「道徳を信じる人」と、 「道徳を運用する人」とが生まれる。

同じ制度で損をする人と、得をする人。

制度が決定した振舞いかた、道徳とか良心、あるいは常識みたいなものは、 偏差と幅を持った概念。ちょうど検査の正常値みたいに上限と下限とがあって、 状況に応じて、上限狙ったほうがお得だったり、 下限狙ったほうがお得だったり。

そんな道徳を目標と定めてしまった人達は、たぶん偏差の範囲内で損失を最大にするよう、 自らの振る舞いを設定してしまう。それが「道徳的に正しい」ことだから。

道徳を運用する人達は、制度が設定した「幅」の中で、自らの利益を最大にするよう動くし、 制度そのものに働きかけて、「幅」をなるべく広くするよう、規制をより少なくするよう努力する。

道徳とか良心は、善悪がせめぎあい、変化を続ける考えかた。

「善」と「悪」との争いというのは、要するに制度が許す振る舞いの 幅をどこまで認めるのか、それを決定するための議論。

道徳を信じたい人、みんなが道徳的に振舞う社会が好きな人は、 「道徳的な振る舞いが最適であった制度」を検証して、 要請される振る舞いの幅をより少なくするよう調整するし、 道徳を運用したい人は逆に、自らの行動範囲をなるべく広くするよう、 自由度をより大きくするよう、制度に働きかける。

どちらの側に立つにしても、道徳とか良心が駆動する社会を バックグラウンドで維持している構造をみんなが理解していないと、 そもそも議論は始まらない。

今の状況は何となく、議論の一方の側が、最初から思考を放棄して、 議論することを止めてしまっているように見える。

陰謀は無い

いつまで経っても議論が同じところを回りつづけて、制度の根本が腐って来てるのに、 場当たり的な対策ばっかり。

いろんな陰謀論。それは外資生命保険会社の陰謀だとか、 医療を海外資本に売り渡すのが政府の基本ラインなんだとか。

たぶん陰謀は存在しなくて、あるのは誰かの願望だけなんだと思う。

これもたぶん構造の問題。

みんなが「人権」とか「やさしさ」を訴えて、問題の解決を迫る。でも問題を構造的に解決するのは 大混乱招くし、そんなやりかたは「やさしくない」から、支持を失ってしまう。問題解決を迫られた側も、 だから「やさしさ」を語って、構造には手をつけないのが最善手になる。

新聞みたいなメディアもまた、消費者の意志からは自由になれない。

医者はあくまでも悪役でないと受けないし、犯罪を犯した宗教団体は、 あくまでも邪悪な人達の組織として報道しないと、読者は新聞を買わない。

メディアは消費者が望んだものしか提供できないし、 上から目線で「これが正しい」なんて、そんなメディアは誰も見ない。

正しい報道とか、公正な報道とか、みんな口では望んでも、 朝日フィルターとか毎日フィルターのかからない「事実」なんて、 きっと味気なくてつまらない。そこには悪役もいなければ、 陰謀論語る論説委員もいないから。

恐らくは同じようなことが、政府の中とか、社会のあちこちでおきてるんだと思う。

みんなが集まって、一つの流れを作り出す。たいていの場合、 その流れは一人一人が意図した ものとは違ってしまうんだけれど、なんで流れがずれたのか、誰にも指摘できない。

「犯人はいなかった」は気持ちが悪い。

「犯人を見たい」なんてみんなの願望が陰謀を生んで、 陰謀の引き受け手として、たまたまそこに居合わせたのが、 医師会であったりマスコミであったり、 外資系生命保険会社とか、はてはユダヤ12人委員会とか。

思考停止の先にあるもの

法律畑の人達と議論になると、結局「我々は法律に従って判断するだけ」なんて 答えになったり、結局「立法の問題です」で議論が打ち切られたり。

医者が世間に叩かれて、叩かれた原因を、行き場のない怒りの持って行き場を 法曹の人達に求めて、彼らの答えはつまるところ「国民がそう望んだから」に行きつく。

原因が見つからなくて、味気ない意見。「つまらない」し「腹が立つ」、このこと自体が、 たぶん「国民が望んだ」論理の真実性を担保している。

「そう望んだ国民」で話が終わってしまうと、もうそこから先は「選挙にいきましょう」なんて 無力な結論。あきらめるのはまだ早くて、きっとこれも思考停止ワード。

「もの言わぬ国民」がこの状況を作ったのは本当にせよ、 「全国民がものを言わざるを得ない状況」を作り出すことは、 技術的に十分可能なはずだから。

思考停止の先にある、もの言う国民が集まる国の作りかた。そのあたりはきっと、 文系方面のどこかの学問ではきっと議論が為されているんだろうけれど、 どうなっているんだろう ?