法律の人達は神様でも裁いてればいいんだと思う

制御解決と構造解決

昔聞いた話。どこかの老人保健施設は、病棟の廊下がすべて斜めに交差していて、 上から見ると、ちょうど「魚の骨」のような作りになっているのだという。

病室から廊下を歩いて、「背骨」に相当する中央廊下に出た老人は、 道なりに「頭」のほうにむかって歩く。

病棟の廊下は薄暗くて、壁紙の色は全て同じ。中央廊下には「交差点」がいくつもあるけれど、 頭方向に向かうぶんには、よほど注意を向けないと、中央廊下は一本道にしか見えない。

「魚の頭」に当たる部分は、ちょうど粒子加速器のような、円環になった廊下がある。 中央廊下を歩いてきた老人は、円環の接線方向に「頭」に入る。 「頭」もまた、壁の色が他の場所と変わらないから、一度円環を歩き出した老人には、 出口が見えなくなってしまう。

自分のベッドからおき出して、病棟内を徘徊してしまうお年よりは、 結局みんな「頭」に集められて、あとは日当たりのいい円環廊下を歩きつづける。 みんな疲れるまで歩きつづけて、疲れたらそこで眠る。

行くところは一緒だから監視する必要もなくて、病棟からいなくなってしまったお年寄りを 探すのも簡単で、動作線が想定できるから、転倒対策も立てやすいらしい。

問題を解決するやりかたには、問題が起きないように監視を続ける「制御」によるやりかたと、 そもそも問題がおきない、あるいは問題が大きくならない「構造」を作ってしまうやりかたとがあって、 上手な構造が作れる問題ならば、たぶん構造による解決のほうが維持管理しやすいし、 見逃しであったり、手抜きや虚偽みたいなモラルの問題がおきにくい。

倫理の限界と構造解決

主訴「診られない」、あるいは主訴「入院希望」なんて高齢者が、今日も何人か入院になった。

年齢なりに、たしかに具合は悪いんだけれど、悪くなってもう3ヶ月目だとか、 見た目全く元気で、救急車から歩いて降りてきて、冬近くなって自信持てないから 入院させてくれだとか。

うちの地域はまだ少しだけ余力があって、こんな人でも入院先は見つかるけれど、 都市部はもう無理。こういう人が入院すると、もう退院の目処が立たなくて、 病棟が廻らなくなってしまう。

今の施設は、今月に入って病棟利用率98%とか、もうギリギリ。 それでも周囲に老健施設がたくさんあるから、何とかまわる。 都市部にいくと、地面代高くて老健施設は食べていけない。入院させたら返せない。 施設に返そうにも、退院したら支払い4倍とか当たり前だから、 みんなもう当たり前のように帰ろうとしない。

実際当たり前なんだと思う。病院にしがみつくのが一番安価で、 一番いいサービスを受けられるんだから。

寒くなると、行政は浮浪者の人達に小銭渡して、 「これで大宮あたりに行って下さい」なんて、年中行事。

たしかその地域の浮浪者を生存させるのは、その自治体の義務みたいになっていて、 冬を迎えた浮浪者の人には、自治体に保護責任が生じてしまう。

どの自治体にもお金なんて残ってないから、お互い押し付け合い。 浮浪者の人達もそのへん分かってて、2つの都市を3往復ぐらいして、越冬するためのお金を貯める。 倫理で「何とかする」限界。たぶん今も構造は変わっていないと思う。

今いる地域には、こんな浮浪者の問題が全くない。寒いから。

僻地の冬は寒くて、そもそも構造的に「浮浪」すること自体が不可能。だから問題が発生しない。

一般内科みたいな、介護とか福祉の泥沼に浸かる仕事も、 老健施設がたくさんあって、気候が厳しい田舎にいるぶんにはまだ何とかなる。 同じことを都市部でやれといわれたら絶対逃げる。

法律家がルールを手放す日

患者さんが「居つく」ことを防ぐのは簡単で、急性期の大病院を一番高価にして、 老健施設、在宅介護サービスの順番に、経済的な負担を少なくすればいいだけの話。 高速道路に料金取るのと一緒。医者の懐潤すのが嫌なら、昔の道路公団みたいに 国の収入にしたっていい。

「上から下へ」の構造さえ作れたならば、あとは細かい矛盾に最小限の制御だけでいけるはず。

政治の人達が大好きなのは、道徳による制御。「老親は、家で診るのが一番幸せです」なんて。

政府が主張する道徳は、要するに「一番お金がかかって、 一番サービスが悪いところに親放り込むのが道徳的に正しい」なんて、 無茶な主張。個人の道徳と、政府の道徳と対立していて、誰も従うわけがない。

対立しあういろんな道徳と、構造の不在。 決まりごとを山程作って、未定義の道徳振り回して物事を進める今の制度は、無理がある。

問題なのは、「道徳のありかた」を議論する場所がどこにもなくて、 構造を決定する機関と、道徳を定義する機関とが分割されていないこと。 道徳が未定義だから、絶対に不満が出るし、分かれてあるべき場所が 分かれていないから、いつまでたっても不正が無くならない。これもまた構造の問題。

たぶん法律家の人達は「あるべき日本の道徳」とか、正義といったものを、 議論して定義するところまでを仕事の範囲にして、実装は経済学者に任せればいいんだと思う。

ほとんどどんな条件のもとでも、一意的な均衡に誘導するメカニズムは存在するし、 経済学者はたぶん、それをデザインすることができる。

  1. 法律家は「国民はこうあるべき」という仕様書を作って、経済学者に渡す
  2. 経済学者は仕様書をもとにして、それを実装するための構造を考え出す
  3. そのデザインには誰も口出しできない代わり、経済学者は、「仕様書」には口を出せない

道義最適と、経済最適とは、たぶんしばしばぶつかりあう。 「どちらがより最適なのか?」を議論する場所は、あくまでも仕様書を作る議会。 法律家のお仕事。

構造的に、汚職の発生する余地なくなると思うんだけれど。

社会を不幸にする「法律家の正しさ」

科学の基礎分野、触媒が働く理由とか、麻酔が効果を出す理由とか、 そんな根源的な「何故」に答えようとする科学者がいなくなった。

ゲノムの分野なんかは、もはや「何故」を考える人は少数で、とりあえず遺伝子見つけて、 誰かが将来「何故」を解明したときには、サブマリン特許で大儲けなんて。

科学者の世界は「オセロゲーム」であるべきなのだと思う。

根源に近い疑問、「角」に当たる領域を確保することこそが、 最大の利益につながるルール。盤の真ん中でいくら自分の駒を増やしても、 誰かが角を発見したら、自分の駒は裏返されて、利益を相手に返還するルール。

たぶん「オセロルールが通用する」社会というのは、 経済とか技術系の人達が志向する「正しい」社会だけれど、 それはもしかしたら、法律の人達が守ってきた「正しさ」とぶつかりあう。

法律の人達にとっての「道徳的に正しい科学者」は、何か宗教的な情熱につき動かされて、 対価など目もくれずに、むしろ対価の少なさにこそ喜びを覚えて、 基礎の基礎へと潜っていく、そんな生き物。前提からして歪んでいる。

角を取られたら裏返る。挟まれたら裏がえる。そんな当たり前のことが、 法律が制御する実世界では極めて難しい。誰かが一生懸命基礎技術を発見しても、 それが発表された頃にはなぜか、その技術は法律的に「既知のもの」になっていて、 科学者は報われない。報われないから手が出せない。

「正しさからの自由」の先にあるもの

「正しさ」に基礎を置いた学問は、もはや人の振舞いを規定できない。

正しかろうがそうでなかろうが、経済学者はインセンティブを使って 人の振舞いをデザインできるし、優れたプログラマは、優れたソフトウェアを開発して、 人の振舞いを強引に最適化してしまう。

それが正しかろうがそうでなかろうが、世の中は正しさとは無関係に、勝手に進む。

変わらない「正しさ」を提供してきた人達は、今ではいろんな分野で律速段階になっていたり、 「国家のためにその才能を使いませんか? 」なんて、失笑するしかない発言をしてみたり。

国家のために何か優秀な人達の力を援用したいのならば、 道徳を説くんじゃなくて、その人たちが国のために力を発揮することが、 その人達の利益になるような仕組みを考えるのが筋。それはもはや法律家にはできないこと。

「学」というものもまた、一種の生態系なのだと思う。

法律家や政治家が支配していたニッチは、今はどうみても経済学の領域。 論理と度胸の経済学者が支配していた「お金」の世界は、 今は物理学者や数学者が大活躍。様々な学問は、そのニッチを奪いあいながら、社会は進む。

もはや下々に正しさを説く法律家という存在は、消え去るべき既得権益者にしか見えない。 彼らもまた、滅びたくないのなら、別のニッチを奪わないといけない。

法律の人達は、いろんな「正義」がぶつかりあう状況をずっと見てきて、 正義をゆがめたり、正義を運用したりといった仕事なら、きっと誰にも負けない。

最大多数が納得する正義、「神様」を定義する仕事、従来だったら倫理の人とか、 宗教の人たちなんかが占めていたニッチは、「膨大な症例数」を 武器にした法律家が奪えるような気がする。

経済学者がお金から自由になろうとしているように、 法律家はそろそろ、法律から自由になってもいいのだと思う。