「見える」を容易にする技術

たぶん「状況を作り出す技術」と「状況に適応する技術」とがあって、 ニュースに乗っかる新技術というのは、たいていの場合後者のほう。

状況を作り出す技術というのは、地味だったり、 あるいは技術的にはそんなにすごいことをしているわけではないけれど、 その技術が出現したあと、ユーザーの心理とか、振る舞いなんかが大きく変わる。

それが出現したとき、「そんなのいらない」とか「現場をバカにするな」みたいな意見が ベテランから提出される技術というのは、たぶん技術全体を大きく動かす。

血液検査のこと

検査データの報告書にHigh とかLow の文字が添えられるようになったのは、 大体10年ぐらい前のこと。

それまでの報告書というのは、GOT とかLDH とか、検査項目の横に検査データが並んでいるだけ。 その数字が病的なのかどうかは、医師が自分で数字を読んで判断した。

それは「革新」というにはあまりにも稚拙な技術。機械が新しくなって、 検査データは正常値と一緒に印刷されるようになって、正常範囲を越えたデータには、 「H」「L」の文字が印字されるようになった。

現場からはブーイング。「こんな余計なものいらない」だとか、「かえって分かりにくくなった」とか。

当時学生として病棟廻ってた自分達は大喜び。正常値をいちいち覚える必要なくなったし、 その数字が「悪い」のか「そうでもない」のか、とりあえずアルファベット追っかければ、 実用上は何の問題もなかったし。

同じころから、検査データに対する医師の態度が変わったのだと思う。

大昔、検査というのは「読む」ものであって、異常を探すために提出するものだった。 異常値の印字がなされるようになって以後、検査データは「見る」ものとなった。

確認のための検査。とりあえず採血出して、印字が真っ白ならば「あなたは大丈夫」なんて、 安直な検査の使いかた。ベテランはみんな眉をひそめたけれど、みんながそれをやるようになって、 今では日本中で「とりあえず採血」。

この10年、「症状のない高脂血症をどうするべきか」とか、新しい展開がいくつかでてきたのは、 たぶん日本中で「とりあえず検査」が当たり前になった影響が大きい。

淘汰圧と技術の沈滞

ICUブック」という集中治療の教科書があって、大体7 年ごとに改版して、今第3 版。

これ読むと、集中治療分野の大雑把な知識は網羅できるのだけれど、 この内容がここ10余年、全くといっていいほど変わっていない。

もともとの初版が時代を先取りした本で、当時はキワモノ的に取り上げられていた内容が、 後になって検証されてきたのが集中治療の歴史。 裏を返せば、この業界には「キワモノ」が生まれる余地が減ってきていて、劇的な進歩が生まれていない。

西洋医学はたぶん、いろんな分野で技術が沈滞している。

循環器治療の分野は、10年ぐらい前の時点でほとんどの技術が生まれている。 もしかしたら再生医療がまた新しい進歩を生むけれど、何か画期的な薬が登場して、 世界が一変したなんてイベントは起きていない。

進歩が著しい分野、抗腫瘍化学療法なんかでは、たとえば再発大腸癌の 平均余命は、 20 ヶ月に達しなかったものが、いま 30 ヶ月の壁にようやく届きそうなぐらい。 これはもちろん画期的なことなんだけれど、それでも世界中の学者が10 年頑張って、8 ヶ月。 分子標的治療とか、手術方針の変化とか、画期的な成果はたくさん出ているけれど、まだ先は遠い。

何かが足りないとか、見えていない何かがどこかにあるとか。多かれ少なかれ、 たぶんいろんな人がそう思っている。

淘汰圧としての「状況を作る技術」

医療分野で今後激変が起きるとすれば、CT の自動診断システムの登場なんだと思う。

病気の診断は無理かもしれないけれど、「ここが異常に見えます」なんて 指摘してくれるようなシステム。技術的には不完全であったとしても、 たとえばその機械の「異常なし」を公的な機関が認めてくれれば、 きっとその技術は、医療に対する淘汰圧として作用する。

CT はまだ、みんな「読み」に自信が持てなかったりするから、 症状の無い人にはなかなかオーダーできない。

CT の読影が半自動でいけるようになったら、翌日からきっと、全国のCT がフル可動状態になる。 訴えられたらかなわないし、「大丈夫」を機械が担保してくれるなら、 きっとみんな聴診器代わりに使う。被爆とか、医療経済の問題は全く解決しないけれど、 今のご時勢、こんな流れを止めることはできないはず。

みんなが当たり前のようにCTをオーダーし出すと、たぶん腫瘍の統計が変化する。 ごく早期の膵臓癌が見つかったり、今まで少ないと思われていた腫瘍が、 案外多く見つかったり。

「もっと早く見つかっていれば、きっと…」なんて言い回しが通用した治療学は、 早期の患者さんが大量に見つかる世の中になって、はじめてその言葉の真実性を試される。

たぶん、ごくごく早期の腫瘍が見つかった人に手術をしたり、化学療法を行ったとしても、 いずれは再発する転帰を変えることは出来ないような気がする。

治療もまた、系全体に淘汰圧として作用するやりかたと、 局所に生じた変化に対応するやりかたとがあって、 抗腫瘍治療は、どちらかというと後者の立ち位置だから。

見えないものを可視化する

カンブリア時代。生き物が「目」をもって、生存競争のルールに「光」が加わった。 光という新しい淘汰圧に適応するため、生き物はいろんな試行錯誤を行って、 カンブリア爆発と呼ばれる多様な生物化石が生まれた。

70 年代、トランジスタが普及した。心電図モニターを電波で飛ばせるようになったことが、 結果として心筋梗塞の死亡率を劇的に下げた。

心臓治療を画期的に変えたのは、血栓溶解薬でもなければカテーテル治療なんかでもなくて、 もちろんバイパス手術も、心臓外科医が誇るほどには、予後に対する寄与率は高くないはず。

心疾患の患者予後を大幅に向上させたのは、患者さんを専門の部屋に隔離して、 心電図モニターを行ったこと。 これによって不整脈が誰の目にも「見えて」、医師はそれに対抗できるようになって、死亡率が劇的に下がった。

学問の世界というのも、見かたによっては一種の生態系。状況が変われば変化を起こすし、 淘汰圧に変化がないなら、学会には「流れ」が出来て、それに逆らう発想は淘汰されてしまう。

状況が変化して、恐らくは「流れ」を見直す機運が高まって、西洋医学はきっと、何か新しい舵を切る。

「見える」と現場はバカになる

聴診器の発明。レントゲン検査。自動血圧計。心電図モニター装置。血液の自動診断装置。 そして恐らくは、CT スキャンの自動診断装置。

見えなかったものが見えるようになったり、 「見ること」それ自体を簡単にした技術というのは、恐らくは状況に対する新しい淘汰圧を生み出して、 適応するための画期的な技術革新をもたらす原動力になる。

「見える」というのは記号への着地。それまで単なる風景として見過ごしていた何かに、 新しい意味を認識する行為。

脳は対象を「見て」しまうと、それを言語化して、それ以上考えることをやめてしまう。 それは一見すると、まるで頭を使っていないように見える。

「見える」技術というのはだからこそ、それに頼る人がまるで頭を使っていないように思えて、 現場がまるでバカの集まりみたいに見えてしまう。 誰だってバカに見られるのは嫌だから、「バカにするな」なんて反発。

現場の反発は成功の証。「見える」を容易にする技術、そんな「現場をバカにする技術」こそが、 パラダイムシフトを生むんだと思う。