言葉の強度について

たとえば病理学者に患者さんの怪しい組織を見せて、「癌でしょうか ? 」なんて。

  • 「癌です」あるいは「違います、大丈夫です」。これが強度のある言葉
  • 「核に中等度の異型があり、細胞配列がわずかに乱れています」。この言葉に強度が不足

たぶん「強度」というパラメーターがあって、強度を持たない言葉は伝わらない。 どんなに激しく何かを訴えたところで、強度を持たない言葉は、 実体としての力を持つことができない。

未知の判断を行うと強度が発生する

Web 世界で何かを発信しはじめた人のページというのは、激しい言葉。

何かのニュースを引っ張ってきて、どこかで聞いたような罵詈雑言。 発信をはじめて日の浅い人の言葉は激しくて、どういうわけだか そのわりに、強度を感じることは少なくて。

発信を行うときに欠かせないのは、「立ち位置」と「価値判断」。

何か文章を書く人は、自分の考えかたを記述するための言葉を用意する。 やりかたは3 とおり。全て自分で用意するか、既製品を借りてくるのか、 それとも言葉を実世界に依存してしまうのか。

ある種の強度を持った文章を書く人達は、自分の立ち位置とか、 価値判断の基準なんかを全て自前で用意する。

要するにそれは、蓄積された過去記事と、背負って育ててきた自分の名前。 そこに長く居ること、ぶれない立ち位置を保ちつづけていることは、 それ自体が「強度」を担保してくれる。

価値記述を実世界に依存するやりかたというのは、要するにその人の経験であったり、 その人しか知らないニュースであったり。

たとえその人の文章が流暢でなかったり、あるいは読みにくいものであったとしても、 その人が体験した出来事とか、実世界で蓄積した経験が他に得がたいものであるなら、 その人の言葉は否応なく力を持つし、きっと多くの人に届く。

言葉は激しいのに力を持たない、文章は怒りに満ちて、罵詈雑言の限りを尽くして 何かを叩いているのに、それを読んでもこちらの感情が動かない、 そんな文章はたいていの場合、既製の立ち位置。

どこかで見たような立ち位置の人が、既知の価値判断に基づいて、何かを叩く。

強度というのは、未知の判断を行う場所に発生する。

「借り物」から強度を生むのは難しくて、それにはどうしても、自分ならではの判断とか、 その人独自の立ち位置なんかが欠かせない。ネット世間では時々、 「文章をコピーして広めましょう」なんて運動が起きるけれど、文章は、コピーが行われ、 それを書いた人の立ち位置から離れた時点で強度を失う。コピーされた文章は、だから たとえ目に入ったところで伝わらない。

強度には責任が付随する

社会的な地位が高かったり、あるいはお金持ちの人が書いた文章には、 そうでない人が書いた文章よりも多くのブックマークが集まったり、 賛同のコメントが増える傾向にあるらしい。

お金で強度が購入できるわけもないから、こんな現象というのは要するに、 強度を維持している人、責任をとる立場にあったりとか、 あるいは経済的な体力を持った人の言葉しか、 やはり人の心には響かないと言うことなんだろう。

言葉を届かせるためには「強度」が必要で、強度というのは、 それを得る代償として、ある種の責任を担保しないと生まれない。

責任を取る覚悟、自分の言葉が「力を持ってしまうこと」に対する恐怖をもちつつ、 それを克服するすることが、まず何よりも 言葉に強度を付加するために欠かせないのだと思う。

強度を持った言葉を書くときというのは、何となく自分がものすごく偉そうな、 「他の誰もが知らなくて、それを書くのがこの世で自分しかいないからこそ書いてやる」みたいな、 そんな傲慢な気分、カラオケで真っ先に下手な歌をがなるときみたいな、 そんな気恥ずかしさが常につきまとう。

みんなと同じ流れで言葉をつなぐのは簡単なんだけれど、簡単に書いた言葉というのは、 やっぱり簡単に読まれてしまって、伝わらない。

データベースは価値判断を行わない

専門知識とか、詳細なデータというものは、強度を担保してくれない。

どんなに詳細なデータを記述しても、「データに語らせる」ためにはどうしても 作者の意志、価値判断が必要で、それを伴わないデータというのは、 残念ながら単なる数字でしかありえなくて、意志をもたない数字が強度を持つことはありえない。

強度を表明する意思を持たない人が増えている気がする。あるいはそれを面倒に思って、 知ってる数字を並べたり、「流れ」に乗っかればいいや、なんて。 恐らくはそれは、学問の世界なんかでも。

真理を探索するためのメディアであった、論文雑誌や学会。科学史ものの一般書なんかを読むと、 1900年代初頭の学会というのは、諸説ぶつかりあう決闘の場であって、どの学者も強度全開、 今の和やかな学会ムードからは想像できない。

「和やかさ」とは要するに、多くの人が強度を手放したこと。

もちろんそれには、論文を発表する人の数が飛躍的に増えたとか、専門分化が進みすぎてしまって、 お互いの価値判断を評価することが難しくなったとか、理由はいろいろあるのだろうけれど。

業績は、恐らくは強度じゃなくて、むしろ数字、論文数とか、 治験に参加した患者数とか、研究グループの大きさで評価されることが増えた。

論文雑誌の巻頭を飾るメガトライアルは、今では製薬メーカーの後援を受けたものばかり。

大きな規模の研究は、発表された時点で「真実」として一人歩きして、今では誰も叩かないし、 戦わない。もはや論文は広告手段で、医師は誰も逆らえない。

強度のない人が群れると既得権益者に見える

それは学会であったり役所であったり、話題になっているところだと、 著作権の保護を叫ぶ人たちであったり。

強度を惜しんで変化を拒む、既得権益者の集団。 その人たちが示す未来は見えなくて、このまま行くと、明らかに世の中悪くなりそうなのに。 その人達が、せめて強度を持った言葉を語ってくれるなら、あるいは 対話をする余地もあるのだろうけれど。

病院なんかもあるいは、外から見れば、変革を拒む既得権益者に 見えてしまうのかもしれないと思った。

我々の言葉には強度が決定的に不足しているし、口を開けば「昔は良かった」、 変革には基本的に、常に反対する立場だし。著作権ゴロなんかとは 一緒にされたくはないけれど、「じゃぁ何が違うの?」なんて聞かれれば、 案外答えられなかったりして。

病院に求められる「強度のある言葉」とは要するに、「あなたは大丈夫」の一言。 こんな言葉こそがきっと、患者さんの心に響いて、医師-患者同士の信頼を作るのだろうけれど、 今の時代、専門家であるからこそ、その一言を言うのがますます難しい。

「強度」だけでものをいうなら、たとえば癌治療の現場では、西洋医学スペシャリストなんかより、 新興宗教の教祖とか、怪しいキノコ売りなんかのほうが、よっぽど強度の高い言葉を提供できる。 実際問題人は強度に流されて、西洋医学はしばしば見話されて、キノコ商売は大流行する。

「ムラ」が強度を取り戻す

たぶん専門家は、自らの言葉に強度を担保する構造を、自分で作らないといけないのだと思う。

それはたとえば、ちょっと前のやくざ社会。

法律とか、司法とか、あるいは世論とか、自分達を外から見る、自分達とは違った立ち位置、 違った価値判断をする人達に対抗して、「我々はこう考える」という強度を担保する組織。 やくざの振舞いは、世間的には「悪いこと」だけれど、内部的にはそれが正しい振る舞いで、 あまつさえ司法の「罰」というものが、やくざ社会では「名誉」に転化されるから、 彼らは常に、強度の高い言葉で人を脅せる。

司法から、あるいはマスコミ世論からの自由を勝ち取るために医師が団結する。 内部的な決まりで動いて、叩かれたり、罰せられたりは、むしろ名誉として その振舞いを担保する。

ムラ社会への回帰。社会のフラット化に逆行して、「ムラ」を作って自閉する。

やりかたは時代錯誤的だし、それは間違いなく 衝突を生む、言い換えれば「強度」を持った行動だけれど、 結局そんな行動が、言葉に強度を取り戻して、 失われた信頼関係を再構築してくれる気がする。