学習の道具としてblog はあんまり役に立たない

大昔。そんなに忙しくはないけれど人間は圧倒的に足りてない、そんな病院に一人飛ばされて、 世界と自分をつないでくれるのはダイヤルアップの電話回線一本きり。

馬鹿だったけれど若かったから、せめて電話回線の向こう側の人たちに、 「自分がここにいる」ということに気がついてほしかった。Webを立ち上げたきっかけ。

大学に戻って、自分のページにも人が来てくれるようになって、 「自分がもう少しだけましな人間になるための道具」としてのネットに期待を寄せたのが、 ちょうどblog をはじめた頃。

時間はたって、来てくれるお客さんの数は増えた。 ネットというのは、コミュニケーションの道具としてはたしかに優秀なんだけれど、 学習の役にはまだあんまり立たない気がしている。

建設的批判がほしい

最初に書いていたのはマニュアル類。

大昔、研修していた病院には医局が一つしかなくて、教科書はまだまだ不十分だった。 ベテランの先生がたが論文や洋書を訳して、プリント作って下々に配って、 医局の片隅で勉強会。

病院は大きくなって、医局は世代ごとに分けられて、商業出版されたレジデント向けの教科書が増えた。 昔のプリントは捨てられて、コピーの裏紙となって山積み。

「自分に気がついてほしい」なんて焦った昔。いきなり人が集まる文章書けるわけないから、 最初にアップしたのはこんなプリント類。

最初はHTML 文章とPDF ファイルだけ。メールアドレスと、掲示板一つ。

たしか1ヶ月ぐらい何の反響もなくて、その頃ぽつぽつ2ちゃんねる界隈で 医療崩壊の話題が出てきて、うちのページにも反響をいただけるようになった。

病院の中には自分しかいないから、もちろんほめてもらえることはすごい励みになって、 あの頃は低スペックな機械使って、猿みたいにキーボードを叩いていた。

定期的に書き込みをいただけるようになると、欲が出る。 ほしかったのは、内容に対する批判的であったり、 「こう考えればもっと良くなる」みたいな改良の提案であったり。

Wiki みたいな動的なページをはじめて、そのうちblog が便利だなんて話が聞こえて、 同じ頃、どういうわけだかFTPの調子が悪くて更新がうまくできなくなって、 結局全面的にblog 移行することに。

blog を導入して、はてなブックマークに参加して、 コミュニケーションはますます簡単になっていったけれど、 それでもやっぱり、建設的な批判はごく少数。

予定では今ごろ、自分が書いたマニュアル類は、いろんなベテラン勢からよってたかってツッコミを受けて、 病棟デビューする研修医には欠かせないぐらい、優れたものになっていたはずだったし、 自分の頭はその頃、ネット世間から知恵をもらって、 今よりもう少しましな思考回路になってるはずだったのだけれど。

賞賛のコストと批判のコスト

ネットという場所は、遊び場としては本当に面白い。何か興味があることを調べるのにも すごく役立つし、日常診療にも欠かせない。

ところが自分の思考経路に問題を指摘してもらいたくて、 それに対してネットの叡智を援用しようと思った場合、 今までのコミュニケーションチャンネルだけではまだまだ不足。ネットを通じた自己改良というのは、 今のところ自分個人に対しては、あんまり役に立っていない。

恐らくは、「ほめること」よりも「建設的に批判すること」のほうがもっと大変で、 ほめ言葉の対価は無償でいいのかもしれないけれど、 誰かから建設的な批判をもらおうと思った場合、それにはやはり、何らかの 金銭的な対価が必要なのかなと思う。もしかしたら、直接会って話すぐらいの距離感も。

「建設的な」批判、何かの意見を通じて、その人の思考回路をよりよく回せるような批判を 行うのは難しい。批判を行う相手の思考経路とか、学習内容の穴を探さないといけないし、 意見を通じて変化を促そうと思ったならば、自分の意見を相手の文脈に翻訳しないといけない。

知識は個人化しないと伝わらない。

個人化のプロセスを経ない批判というのは、要するに「君のレベルはまだまだだから、もっと勉強してね」 という意見以上のものにはなり得ない。文脈を共有していない人からの批判的な意見というのは、 しばしばたんなる単なる優越感ゲームになってしまって、自己改良にはつながらない。

文脈には恐らく「強度」みたいなパラメーターがある。 社会的な地位が自分なんかより圧倒的に高い人、あるいはネット世間で知恵があると周りから認知されている人 の持つ「文脈」というものは、少々のずれなど吸収してしまい、近づいてきた誰かを感化してしまう。

強力な文脈を持った人が面白い文章を発信すると、その文脈はすぐにネット世間に共有されて、 いろんな人がその文脈に影響を受ける。そんな影響はたいていの場合有益で、 自分もまた、何人もの思考に影響を受けつづけているけれど、 それは自分が意図した「改良」とはちょっと違う。

属性と内的思考

「属性」というのは、外から見たその人の印象であったり、ネット世間での立ち位置であったり。 内的思考というのは、もっと個人的な思考回路。俺様定義。

ネット世間でいうこところの「ほめる」「批判する」は、たいていの場合その人の 属性に対する好みで語られることが多くて、意見を発信している当の本人は、 それを内的思考に対する賞賛、批判と受け止めてしまう。

属性というのは、いわば「こう見られたい自分」。ネット世界で「傷ついた私」を 発信している人に、「医者行け」の一言が何の意味も持たないように、 発信者はしばしば、内的思考に対する批判を求めつつ、 属性に対しては不可侵であることを要求する。

blog というメディアは、ある程度まとまった文章を発信するためツール。

意見を発信する人の内的思考は、その人自身の編集を受けて、「属性」を背負った ひとまとまりの思考として発信せざるを得ない。まとまりのない文章は伝わらないし、 編集を受けない「生の思考」なんてものは、たいていの場合冗長すぎて、そもそも読んでもらえない。

twitter による編集の外部化

twitter という道具は、そんな「編集機能の外部化」が可能になりそうな点で、とても興味がある。

1 度に書き込める文章はたかだか140字だから、その内容はどうしても断片化せざるを得ない。 文章の長さとか体裁に関係なく、follow をもらえた人は、半分強制的に自分の文章を読まされる。 内的思考そのまんまの独り言に特化したツール。

ちょっとでも思いついたことをとにかく書き散らして、反響とか、意見の応酬なんかには あんまり重きをおかないで、とにかく量を書く。何日かして検索をかけて、 他人様のfavorites に入っている自分の文章を振り返るのがすごく面白い。

「自分の中に面白く無い部分がある」ということが可視化されることが、何といっても 面白い。反響をもらうこと、反響をもらえないこと、そのどちらもが楽しい。 自分の意見をあとから検索すると、びっくりすることしばしば。自分が力をいれた部分は 誰もがスルーしている反面、何も考えないで書いていたり、文脈つなげるために でっち上げたような一言が、何人ものfavorites に入っていたり。

twitter を書くようになってから、質よりも量に重きをおくようになった。 賞賛をいただくことよりも、「反響がないこと」を通じて、自分を査定してもらう ことに面白さを感じるようになった。「ないこと」を通じた反響は、 もちろん自分の属性には何の影響も与えないから、それは何となく、気分的にすごく楽。

商業出版物には、編集者の力量というのはたしかにあって、 いくら面白い考えかたをする作家でも、編集者が手を入れないと 読める文章がまともに書けない人とか、 その人にしか経験できないものをたくさん持っているのに、 それをアウトプットする能力に欠けている人とか、 「面白いんだけれど、編集しないと使い物にならない」思考というのは、世の中にたくさんあるらしい。

作家の機能をネットワークが置換する日は来ないのだろうけれど、 編集者の機能というのは、あるいは編集という仕事が「マス」を志向する限りにおいては、 もしかしたら集合知による置換が可能になるのかもしれない。

twitter の持つ「編集機能」はまだまだ未熟ではあるけれど、今までのblog の延長線上にない、 twitter の不思議な魅力というのは、たぶんこのあたりにあるんだと思う。

思考のバックヤードを覗くこと

ネットで文章を公開している人同士、蔵書を公開して、それを交換できるサービスがあったなら 面白いだろうなと思う。

古本屋さんで「汚い」本を買うのが好き。ページが折ってあったり、線が引いてある本というのは、 自分の興味とは明らかに違う部分に別の人の興味を見つけられたりして、その人の内的思考を 覗きこんでいる気分になれる。

残念ながら、古本屋さんの本というのは、元の持ち主の属性が見えてこない。 その人がどんな属性を持っていて、その本に引いた線からどんなアウトプットを生み出したのか、 それが分からないのが片手落ち。

線をひいたりページを折ったりといった工程は、本という製品を個人化していく行為。

それは要するに、自動車レースに参加する人達が、市販車をレース仕様に改造するようなもので、 車としての価値は下がるけれど、「早い車がほしい」なんて思いを共有する人達にとっては、 そのノウハウにはとてつもない価値があるもの。

たとえその人が匿名の立場であっても、その人が読んだ本、本から見出した面白さ、書き込みや線、 ページの折り目を通じて表現された何かが、ネット上で別の文章としてアウトプットされる過程を 共有できるならば、それはきっと、その人に直接会って教えを乞うことで得られる何かを 補間し得ると思う。

内的な思考をアップデートして、「もう少しましな人間になる」道具としてのネットワークは、 こんなサービスができてくれると、もうすこし実現に近づく気がする。

まとめ~属性を越えた先にあるもの

内的思考を可視化することはできないし、編集を受けない、生の思考は学べない。

blog というツールはもう限界なのだそうだ。確かに限界なんだと思う。 個人が隠れる属性を越えたその先、その人の内的な思考を覗きこんで、 それを改良するツールとしては。

それでもblog から分岐した新しいツールというものは、そんな属性の壁を乗り越える 手段を提供しつつあって、そんな努力はたぶん、だんだんと成功しつつあるように見える。

内的思考の書き換えを迫る、そんなやりかたの延長には、もしかしたら怖い世界が まっていたり、あるいはたぶん、次世代の広告業界は、そんなやりかたにこそ 目をつけるのだろうけれど、属性を介さないコミュニケーション手段というのはきっと、 今まで以上に「人を賢くする道具」としてのネットの働きを強化してくれるのだと思う。