将器というもの

身内に医師がいる患者さんを診察するときは、そうでない人以上に気を使う。

実際のところ、頭フル回転させてまじめにやろうが、反射神経だけでいい加減にやろうが、 患者さんの予後はほとんど変わらない、はず。たぶん。

治る人は誰が見たって治るし、そうでない人は、やはり誰が見ても治らない。

ネットワーク時代。仮に主治医の能力が不足していても、 少なくとも「自分には能力が不足している」と感覚できるだけの頭が 主治医にあれば、どんな医師に当たっても、たぶん同じような治療が受けられる。

身内に医師がいる人と、そうでない人。外から見ればもちろん、受けられるサービスは 全く変わらないはずなんだけれど、診る側の気分は、それでも大分異なっている。

「お任せします」と「良きに計らえ」の違い

異なるのはたぶんこの一点、身内に医療従事者がいる患者さんは、 治療の方針を「主治医の良きに計らえ」と言い切ってしまって大丈夫、ということ。

「お任せします」と「良きに計らえ」。どちらも要するに、決定権を主治医にゆだねる という意味あいでは一緒。何というか、頑張る範囲が微妙に異なる。

無数にある選択肢の中から、最善解を探す。探すためには探索範囲を設定する必要があって、 範囲の広さがすなわち「頑張り」。

「お任せします」が指定する探索範囲は、あくまでも商売の範囲。 重症度に応じて、あるいは対価に応じた範囲で頭を使って、解答を探す。 「良きに計らえ」の探索範囲は、主治医の能力とか、プライドなんかが決める。

結局のところは保険診療だから、どちらにしてもできることは同じ。 同じだけれど、かかってくるものが主治医個人にとっては大きいものだから、 医療従事者の身内を診るのはとても疲れる。できることは一緒でも、疲れた分頑張ってる。

頑張りが数字に現れるとき

医療の制度はそれなりに良く出来ていて、病名が決まって入院したあとは、 「頑張り」の有無は隠蔽されて、同じ対価を支払えば、 誰もが等しいサービスを受けられる。

「頑張り」で差が出てくるのは、病名が付く以前の部分。病名がつかない限り、 その人はまだ「患者さん」ではないわけだから、病院の守備範囲外。 どこまでを自分の守備範囲と定めて、どこから先を無理と判断するのか。 そのあたりにこそ、頑張りの差が現れてくる。

医師一人、たとえば産婦人科医ならば、頑張れば年間300人のお産が取れるし、 毎日100人外来をこなしている内科医だってたくさんいる。

安全確保に自信が持てなくなる。自分の能力を見切る。要因はいろいろだけれど、 こんな人たちが頑張れなくなると、お産可能数は100人以下落ち込むし、 内科外来は閉じられてしまう。

医師の数は増えている。日本中の救急医が奮起すれば、 まだまだ救急外来は戦えるし、全国の産科医が、明日からいっせいに「300人体制」で 頑張れば、それだけで僻地の産科問題は解決する。たぶん。

「良きに計らえ」を担保するもの

やれることは一緒であっても、身内に医師がいる患者さんに対しては、基本的に主治医は頑張る。

この「頑張り」の原動力になっているのは要するに、相手医師の「君には無理そうだから、 あとは自分の施設で診ます」という一言が怖いから。

「君が無理だというなら、あとは僕が全部やるけれど、それでいい?」

研修医の頃、上司から言われて一番きつかったのがこんな一言。たぶん全国区。 それどころかたぶん、徒弟制文化を引っ張る技術屋界隈では、恐らくどの分野であっても一緒。

みんなすごい上司にあこがれて、そんな人達から「失望」を引っ張りたくなくて、 自分の限界まで、あるいはその限界を越えて頑張って、少しづつ成長する。

「同業者の失望」というのは、きっと全ての技術者が背負う原罪。

だからこんな人を目の前にすれば頑張るし、 たとえ「身内の医師」が研修医であったとしても、その人と対峙するときは、 いつも講座の教授と面談するときみたいな気分で、緊張して臨む。

医師が同業者を診るときのルールはけっこう厳密で、「良きに計らえ」で100% 相手に決定を委ねるか、 最初から全て自分で診るか、基本どちらか。

同業者の身内に対しては臣下のごとくにへりくだる義務があって、その代わり、相手はこちらの方針に 口を挟んじゃいけない。もしも方針に意義があるときは、そのときは一言「あとは、うちの施設で診ます」とだけ告げる。

「うちで診ます」と言われた主治医は、自らの実力不足にうなだれて、 患者家族はふがいない主治医に嘆息しながら、自分の病院へ患者を引き取る。

このルール無しに、主治医の方針に意義を挟むことは許されないし、これがあるからこそ、 同業者同士は「よきに計らえ」の紳士協定を今でも守る。

相手が大学教授だろうが開業の先生だろうが研修医だろうが、その人が医師である限り、 みんなこんなルールで行動しているはず。

「将器」というもの

福島県では、「今後は救急車を絶対断らない」という決定を下したのだそうだ。

うちの施設は、今すでにそうなっている。昔研修していた某病院も、 そのあと飛ばされた某病院も、どこも同じルール。絶対断らない。今に始まったことじゃない。

「絶対…」をやっていて、それがちゃんと守られている病院に共通するのはたぶん同じこと。

それは医師の人数であったり、病院が持つ設備の規模なんかではなくて、 「できないのなら、俺が全部やるよ」が病院長の口癖になっていること。

「絶対断らない」ルールを続けている施設の病院長は、たいてい無茶苦茶な人で、 いつも一番働いているのに、いつまでたっても疲れない。その患者さんが専門外だろうが、 院長の手先が少々怪しかろうが、「断らない」と決めたら手を動かすし、 自分なんかが「診れません」なんて泣きを入れると、院長のほうがもっと専門外なのに 「じゃあ俺が見るよ」なんて。それは危ないから、結局自分が診るんだけれど。

カリスマ性とか、宗教的情熱とか、マスコミ受けするそんな要素については良く分からない。 いろんな印象の人がいるし、中の人として働いている分には、たぶんそんなのはあまり関係ない。

プログラマーの手だけではなく心まで動かせるのは、プログラマーでしかないそうだ。どの業界もきっと、 このあたり共通なんだろうなと思う。

病棟いっぱいだろうが、専門とはかけ離れていようが、治療が必要な患者さんが現れたときに、 自らのリスクで「やれないなら俺がやるよ」と手を動かせること。

「将器」というものを医師に求めるとすれば、たぶんこの一点に尽きるのだろうし、 福島県で「断らない」という決定を下した先生方に将器が備わっているならば、 きっと「断らない」ルールは上手くいく。みんな頑張るはずだから。

失敗したなら、それは要するに、そういうことなんだと思う。