断絶の影で穏やかに変化する何か

激変している状況のすぐ側で、穏やかで連続的な変化を続けている何かがあれば、 それはもしかしたら、大きく変化した状況の原因になっている可能性がある。

激変の原因に、別の激変をつなげる理解のやりかたは、 分かりやすいけれど、もしかしたらしばしば、何の解決ももたらさないかもしれない。

療養病棟のルール変更

保健医療を取り巻く状況がまた少し変わって、以前認められていた、 あるいは暗黙の了解で何とかなっていた、 病棟をまたいでの薬の持ち越しが認められなくなった。

急性期病棟と療養病棟。お金の勘定が少し違って、急性期病棟ならば、高い薬をバンバン使うと 儲けにつながって、療養病棟は、なるべく薬を使わないほうが儲けにつながる。

このルール自体は合理的。若い人なら。高齢の患者さんだとそんなに治りが早くないから、 まだまだ「病気」の範囲にいても、療養型病棟にベッドを移さざるを得ない。

今年に入ってから、当院の病棟利用率はずっと90% 越え。うちがはじけると、 次の病院まで1 時間だから、何とか回す。回すためには薬が必要で、 でも高い薬を療養病棟で使うには、今度は病院の損失が多すぎる。

実際のところ、古い薬でもほとんどのことはできるし、若い人たちなんかにはむしろ、 信頼性重視で古い薬を好む医師は今でも多い。新しい薬、高価な薬が得意なのは、 症状があいまいで、抵抗力が少ない高齢の患者さんを、何となく治すこと。 影響を受けるのはこんな人達。

「何となく、何とかする」やりかたには 2 種類あって、何とかするか、ごまかすか。

今までは何とかしてきたのだけれど、たぶんこれから、このあたりの判断が劇的に変わる。

連続的な変化が激変を生む

今まで「おみやげ」なんて暗黙のルールがあって、急性期病棟で使った薬を、 そのまま療養病棟に持ち込んでいた。いくつかの病院またいで、 全国どこでも同じようなことしてたけれど、うちではこの間、「やめましょう」なんてお達しがあった。

病棟運営の方針は大幅に変わった。

今まではなるべく早くに急性期を乗り切って、残りの「詰め」は療養棟で、なんてやりかた。 もはやそれは通用しないし、療養棟で実質できる治療なんて知れているから、 今はもう、できることは急性期病棟でできる限り行って、後は一刻も早く、もと居た施設へ。

施設は施設で、薬をたくさん出せば出すほど赤字になるルールでやられているから、 処方箋の押し付け合いは、今まで以上にシビア。今けっこう大変。 恐らくこれから、どこの施設もこんな流れになって、世の中世知辛くなっていくはず。

上でおきているのは穏やかな変化。

何か指導が入ったとか、保険点数を大幅に削られたとかではなくて、 お上のかもし出す「空気」みたいなものが年々厳しくなる中で、 それが現場の対応となって発現すると、今回みたいな混乱となってしまうという話。

激変は隠蔽される

現場は混乱しているけれど、混乱を消費者に見せるわけにはいかないから、 患者さんサイドから見た現場はたぶん、今までどおりに穏やかなはず。

穏やかさは穏やかなりに、それでも処方が少しづつ少なくなったり、 今まで使っていた薬が、知らない薬に変わったり。もっとシビアなところでは、 今までなら「頑張りましょう」なんてお話だった患者さんが、 もしかしたら「そろそろ限界かと…」なんてお話に変わっていたり。

恐らくピラミッドの上から下、上は政府の偉い人達から、官僚の組織を下って 病院越えて、下は患者さん一人に至るまで、連続と断絶というものは、 恐らくは交互に現れる。

誰かが上のほうで、何となくゆっくり変化したことが、下に伝わると大混乱となって現れて、 その層での「現場」を守る人達は、その混乱を何とか隠蔽して、再び穏やかな変化として下に伝える。

切り取る層ごとに、状況は穏やかにも、激変しているようにも見えるけれど、 激変している状況のそばで穏やかに変化しているように見える何かというのは、 一見状況に無関係なようでいて、きっと変化した状況を生んだ原因となっている。

世の中を斜めに見るために

「分かる」というのはたぶん、答えを見つけることなんかではなくて、 止められない思考をきりのいいところで停止して、落しどころを発見することなのだと思う。

記号化、言語化は情報の欠落を避けられない。

分かるためには、分かったことを伝えるためには、それを言語化しないといけなくて、 言語化が為された時点で、その人が感覚、思考していた状況というものは、 もはやありのままの写実ではいられなくなってしまう。

「賞賛駆動型のネットワーク」なんてものを想定していた。

みんなが医者ほめて、医者はほめられて慎み学んで、お互い賞賛通貨をやりとりしながら現場回して、 マスコミがそれを全部ブチ壊した…なんて理解。

必然的に起きてしまったことを説明するのにはネットワークの考えかたがすごく便利で、 ネットワークを駆動するには、何が燃料になるエネルギーが必要で、昔はそれを、 賞賛と名誉に求めた。

ネットワークの考えかたは、まだそれなりに新しかったのだと思う。 書いた文章はそれなりに同意をいただけたし、うちのサイトはその昔、 そんな医療のお話をたくさん書いて、アクセス数も多かった。

いろいろ考えたり、あるいはそれでも現場を回していく中で、やっぱり何となく違う気がしてきた。

某巨大掲示板では、今もやっぱりマスゴミが、司法が、なんて怨嗟の声。 目に入るものは昔も今も変わらないのに、やっぱり世の中変わらない。 マスコミが滅んで裁判官がいなくなっても、たぶん救急が元どおりに廻るとは思えないし、 今さらシミンの人達にべた褒めされても、やっぱり全然嬉しくないし。

分かりやすい理解はたぶん、本来見えていなくてはいけない何かを隠蔽してしまう。

賞賛はなくなったし、医者はやっぱり叩かれる。それは間違いなく自分達が体験している 事実なのだけれど、賞賛されなくなったり、叩かれることそれ自体、恐らくは何かの結果にしか すぎなくて、それを元に戻しても、時計の針は戻らない。

戻るはずのものは、多分戻らない。それはつまり、今見えているものが原因ではないか、 そもそもの「原因があって、結果を生じる」という理解が間違えなのか、たぶん両方。

真の原因はたぶん、ただ関係性の中に存在する。

いろんな状況が激変していく中で、それでも変わらない何か、あるいは 穏やかにしか変化しない何かというものがあって、それはきっと、 激変を受けた状況同士のつながりを変化させて、 系に対してある種の淘汰圧として作用する。

何をすれば見つかるのか、そもそも見つけることに意味があるのか、 そのあたりの方法論全然見通し立たないんだけれど、 世の中斜めに見つづけていけばたぶん、そのうち何か見えてくるんじゃないかと思う。