終了判定の問題を考えている人がいた

IHARA Note というblog の紹介記事。 以下は全て、リンク先blog 記事の抜書きと、自分の感想。

指摘されてしまえば当たり前のことなんだけれど、 終了条件が提示されていない問題は解くことができないし、 解決を求められる世の中の問題の多くは、「解決」の定義であったり、 解決の程度を評価するための「ものさし」なんかも、回答者が自ら 用意することを求められる。

「全部自分で用意して下さい」なんて教えてくれる人は少なくて、 たいていの場合は「何とかしろ」とか、もっと意地悪に「頑張れば何とかなる」だとか。

そんな「問題の終わらせかた」について、ずっと考察おられる研究者がいた。

IHARA Note

研究とは「未知を既知にする仕事」

研究という仕事は、「未知のものごとを既知にする手段」 についての具体的な方法と定義されている。

研究の始まりは、まず「未知のものごと」を見つける作業である。 次に、「どうやったら既知となったことになるか」を考える。 この定義をしっかりしておかないと、どこに突き進んでいけばいいのかが分からなくなる。 IHARA Note そもそも研究って何?

「問題が解けるのかどうかを判別する能力」というのは、 小学校の算数でいえば、得体の知れない形の図形が与えられたときに、 その面積が求まるのかどうかを判定する能力に相当する。 つまり、ほとんどの人は研究ができない。(原文改変) 研究室にほしい人材

工学畑の研究は、技術の受け手とのコミュニケーションが欠かせない。

コミュニケーションを行うためには、興味を持って、それを分析した上で評価して、 さらに「未知が既知になった」条件を自ら見つけて、問題をそこに帰着させる能力、 すなわち研究者としての資質そのものが問われることになる。

「あなたの大好きなものごとについてその魅力を大いに語ってください」 この質問によって見ようと思っているのは以下のような能力である。 もしも教員になったらこんな面接をする

  • 好きなものがあるかどうか。何に対しても興味を持ったことのない人は、 研究に対しても興味を持てない
  • 魅力を語ることができるかどうか。魅力を語るためには、 その対象を多かれ少なかれ分析しなければならない
  • 何かを語って伝えることができるかどうか。コミュニケーションが 成り立たなければ研究手法を教えることができない

未知問題の物差しは自分で作る

評価を行うためには、評価の手段と、それを数値化する手段を持たないといけない。

役に立つ教育を受けた人が本当に幸せになれているのか、誰か測ってくれませんか?

いい学校を出た人が本当に幸せになれるのか。どうやったら幸せになれるのか。

「幸せ」みたいな測定不可能なものを目標にした問題は解答することができないし、 「幸せ」を、何か別のパラメーター、文中では学校ごとの自殺率みたいな数字で評価しないと、 それを問題化して論じられない。

「勝つ」とか「いい手」なんかも、本来は測定不可能な問題。 測定不可能なものを測定可能なものへと帰着させるために、 将棋プログラムのボナンザは、六万局の棋譜から「学習」を行ったのだそうだ。

「ボナンザは六万局を全く暗記していない」と書いたらかなりの人が驚くことだろうと思う。 (中略)読んだだけでは将棋は指せない。読んだ結果が「善くなるのか」「悪くなるのか」が 分かって初めて指し手を決めることができる。そして、この「採点表」を作るためだけに 「六万局」を使用している。「六万局」は「採点表」に化けたのである。 「ボナンザVS勝負脳」を読む

ボナンザのすごさ、あるいは将棋プログラムの強さというのは、 「いい手」を打ち続けるという問題の「いい手」というパラメーターを、 実際に数値化して評価することに成功した部分にあるのだという。

終了条件の設定について

実力は水準に達していないのに、周囲のノートを写したり、コミュニケーションやら、 人間関係やらを駆使して卒業していった学生のことを回想して、中の人はこんな評価をしている。

周りを見ると、体裁だけをとり繕ってほとんど実利をとらない人が多い気がする。 むしろ、全力で「私は馬鹿です」と宣言して実利をとりにいってくれた方が好感が持てる。 ときと場合によるとは思うが、だいたいの場面で私はそう感じる。 卒業式の日に言われた言葉

これは終了条件の設定問題なのだと思う。

「ただひたすらに勉強すれば、きっといい結果が返ってくる」。こんなことを考えて ひたすらに努力する行為は、果たして本当に「努力」なんだろうか?

そもそも「問題が解決された」と言える条件とは何なのか。

手持ちの道具、自分の実力を使用した範囲で、その問題を解くためには何をすればいいのか、 まじめ一本やりで勉強した「実力のある人」と、足りない実力を人間関係で乗り切った人と、 果たしてどちらがまじめに「問題を解いた」と言えるのか。

中の人自らもまた、博士号を取るときには、最初に「問題終了の定義」を探したらしい。

博士号を取るためにまずやるべきことなのは、自分の専門領域の中で、「よくあるテーマ」かつ 「査読者受けのよいパターン」を満たしている「海外の論文」を探すことなのだという。

よくある「博士の学生が論文を通せなくなるパターン」は、 学会誌に偉い人が書いているような「自分の信じた道をひたすら進め」と いう感じの言葉を真に受けて学会の空気を読まなくなるというものである。 これをすると、独創的な研究はできたとしても論文は一切通らなくなる。 博士号の取り方

「博士号を取る」という問題は、要するに「海外の論文雑誌に一定数の論文を掲載してもらう」 ということなのだという。この条件に達するために、今度は海外の雑誌に載せるやりかたを探す。 それが分かれば今度は…という流れ。

未知問題でまずやらなくてはならないことは、終了条件を定義すること。 終了条件が決定できて、そこではじめてその問題を解決する道筋が見えてくる。

終了条件が示されない研究には「時間がかかる」

多くの学生にとって、研究は「つまらない」。 何故つまらないのかを問うた答えの一つが、「ぱっと終わらせられない」 という返事であったのだという。

なぜ、ぱっと終わらせることができないのか。それは、終了判定のレベルが高いからである。 例えば、現在の常識ではあり得ない話ではあるが、一週間頑張れば結果がどうであれ 卒業させると言えば、頑張るのではないだろうか。 鍵は「結果がどうであれ」という部分である。 ほとんどの研究室には、「終わらないかもしれないからやる気になれない」 という学生への対処法が存在しない。それどころか、そういった学生を サボっているだけと見なす傾向にある。 学問の閉鎖性と「ポップリサーチ」

ごく一部の、あるいはたぶん「優秀な」研究者の人達は、そんな研究を面白いと感じてしまう。

塾長は、(レポーターの)太田光に「疑うことは大事です」と何度も言っておきながら、 学問の面白さについては疑っていないようだった。 少数の人たちが、無根拠に学問を面白いものと決めつけている。 そして、研究室では学生たちに「面白いのだからもっと頑張れ」と苦行を強いている。 その上、頑張れない学生に対し、なぜ頑張れないのだろうと首をひねりつつも、 そこで思考を停止させている。 学問の閉鎖性と「ポップリサーチ」

  • 終了条件が見えない問題に対して本能的にためらう学生
  • 終了条件が未定義である問題に対して苦痛を感覚することができない研究者

「未知の問題に答えを出す」研究者としての立ち位置は、 果たしてどちらが正しいのだろう?

結局、時間の問題というのは、終了判定の問題である。 研究の典型例は、 未知の問題を探し未知の問題を解くというものであり、この研究の方法論が覆らない限り、 おそらく「研究には時間がかかる」。

作者の人は音声認識畑の工学研究者で、医療とは縁もゆかりも無い人だけれど、 「未知の問題を解決するやりかた」というのは、分野を越えて参考になる考えかただと思う。

ためになる話がたくさん書いてあった。