ルールの実装とソートの実行

ルールを実装して、それを遵守させるコストは、たぶんどこかの瞬間で、 ソートを実行することで、自発的にルールが立ち上がるコストを上回る時が来る。

人がルールを作り、それにより序列が決まるのではなく、ソートを行い、 出来上がった序列がルールを作る、そんな時代が来るような気がする。

医療訴訟の問題

病院でおきるトラブルのほとんどは、たぶん医者側が全面的に悪い。

Harvard Medical Practice Study という、医療訴訟は本当に患者救済に役立っているのかどうかを 論じた研究がある。本当に過誤があったケースでは、訴訟に至ったり、賠償金の支払いに 至ったケースは少なくて、むしろ過誤が無いケース、医療者側から見てミスが無い、 そんな事例のほうが訴訟になって、賠償金の支払いに至っているケースが多かった。

一見矛盾したこんな結果を説明するのは、医療者側が「言わなくてもいい一言」を言ってしまったとか、 単純に主治医の印象が悪かったとか。訴訟を起こすきっかけになるのは医師に対する印象であって、 治療の結果そのものではないという結論。

裏を返せばたぶん、医師がサービス業的な立場を徹底しさえすれば、 ほとんどの場合、過誤の有無にかかわらず、訴訟のことなど気にしなくてもいい。 訴訟を怖がって、みんなハイリスクの科を避けてみたり、防衛医療に走ったり。 笑顔を絶やさず、清潔な白衣を着て、間違ったときには素直に謝れば、 訴訟なんてきっと怖くない、はず。。。

問題なのは、挨拶を送れば罵倒を返して、頭を下げれば土下座を要求するような人たち。 要求に際限なくて、何をやってもトラブル必発。この人達相手に「素直に謝った」りしたら、 その後大変なことになる。

「間違ったら謝る」。こんな単純なルール一つとっても、 ルールによって能力以上の利権を得る人がいて、 その人達に対策しようとルールを変えると、 今度はそれ以外の人たちが不自由極まりないことになる。

みんなが不満を持つ、不完全なルール。たいていの場合、 問題なのはルールそれ自体ではなくて、むしろルールにより不可視化された序列のほうにある。

序列を隠蔽するルール

ポーカーみたいなトランプゲームで、カードの一部を開示しながら勝負をすると、 能力の差がもろに出てしまう。

能力が高い連中は、開示するカードで相手にブラフを仕掛けたり、相手が開示したカードから、 相手以上に多くの情報を読んでしまったり。高校生の頃、こんな「オープンルール」が 流行ったことがあったのだけれど、ある種の頭のよさを持った人、 東大あたりに余裕で現役合格するような連中は、こんなルールになると無敵だった。

要するに、受験勉強で有利な能力と、ある種のトランプゲームで有利な能力とが 一致していて、ルールをよりオープンにすることで、個人の能力差が勝敗として 可視化されただけなのだけれど、それがあまりにも極端で、 ゲームとしてはほとんど成立しなかった。「頭が悪い」側は、もう何やっても勝てないから。

人が作ったルールというのは、たいていの場合、 もともとそこにあった序列を隠蔽するために作られる。

ポーカーゲームは、相手の手札が見えないからこそ、多少の能力差がある相手とでも、 一緒にゲームを楽しめる、そんなバランスになっている。

ルールというのは本来、能力序列の両極端の人が得するやりかた。 極めて高い能力を持った人と、そのルールの正当性を主張することで、 能力以上の利益を得られる人と。

序列の中間層、そこそこの能力はあるけれど、最強を自称できる程には強くない、 そんな人達は、ルールが施行されることで、たいていの場合割りを喰う側に回される。

「透明な政治」の先にあるもの

いろんな物事をオープンに進めていくと、ある種の頭のよさが決定的な差になっていく。

ポーカーみたいな単純なトランプゲーム一つを取っても、カードを半分ぐらい見せてしまうと、 もう根本的な技量差がひっくり返せない。「見せ札」を場に晒して、あとは理詰め、理詰めの 力技をやられると、能力の低い側にはできることがなくなってしまう。

ルールの透明化、密室談義の廃止は結構なことだけれど、たぶんそれが実現したら、 たとえば国会議員の人たちなんかの明示的な序列、「政治能力」みたいなパラメーターで のソートを行った名簿の作成が可能になって、「能力が低い」側の人は、能力の高い人には 絶対に勝てなくなる。

密室で何かやること、隠すこと、談合することというのは、 もちろん倫理的には「悪」とされているけれど、たいていの場合、 それはむしろ弱者救済に働いていることが多い。

本当に「強い」人にとっては、むしろオープンルールになってくれたほうが、 確実に勝てるぶんだけ、見返りが大きかったりする。談合廃止とか、1 円領収書とか、 ルールの見通しを良くする改革というのは、ルールの利権を享受してきた人達が、 今度は一番割りを喰う側に回るやりかた。

みんなが反論できないソートの結果は、あるいはルールを不必要にして、 議論は政治から放逐される。正しいパラメーターによる評価が生んだ序列には、 だれも反論できないはずだから。

ルールのコストとソートのコスト

社会が大きくなっていくと、ルールを遵守させるためのコストは高くなる。

ルールの利権を要求する人は増えるし、ルールを破ることによって失うものは、 社会の大きさに逆比例して減っていく。ルールはますます複雑になって、 ルールに不満を感じる人の数も増えていく。

ルールに対する不満は、ルールのオープン化、序列の可視化を必然的に要求する。

ルールが隠蔽していたものが公開されて、「ルールの利権を不当に得ていた人」が明示されると、 そんな人達はゲームの場から放逐されて、ルールはシンプルになり、中間層は相対的に得をする。

社会が大きくなって、人と人とをつなぐコストが減れば、あるいはどこかでルールが時代遅れになって、 序列の可視化を介した自発的ルールというものが主流になるかもしれない。

たとえば病気の重症度と、その人が病院から受けたサービスとの比を取って、 その序列を誰からも見える形で明示できるなら、たぶん「欲張りすぎない」なんてルールを いちいち作らなくても、場には勝手にルールができる。

たとえば「医師が患者のために取ったリスク」と、「その医師が患者から受け取る対価」との 比をとって、すべての医師を序列化すれば、恐らくは地域医療の崩壊とか、医療費大赤字とか、 産科崩壊の問題なんかは自然に解決する。誰がずるして楽してるのか、たぶんすぐに分かっちゃうから。

「人は公平」。社会を維持する最も基本的なルール。

こんなルールもまた、それがルールである以上、 何かを隠蔽する機能を持って、そのルールから利権を得る人を生む。

公平を疑うところから始まるんだと思う。