見られる自分となりたい自分

目線が人を作るのだと思う。

「こんな人間になりたい」なんて人物像はそもそもありえず、「こうなりたい自分」というのは 「こう見られる自分」の形でしか存在し得ない。

自己というものは本来、他者との関係を通じて記述される何かであって、 それ自体単独では存在したり、議論の対象とすべきではないし、 ましてやそれを目標にしてはいけない。

「あなたはこんなふうに見える」という一言に対して、人はだからこそ抵抗することが難しいし、 他人から否定的な自己イメージを記述されて、そこにすかさず「こうすればもっと良くなる」 という考えかたに割り込まれると、もはやそれに抵抗できない。

オカルトに走った親方のこと

一時代を築いた横綱貴乃花親方が、現役の時にタレントの宮沢りえと結婚していたのなら、 あるいは今みたいなオカルトじみた言動を繰り返すことにはならなかった。

全盛期、横綱はなんだか神聖なイメージを持った存在で、否定的な報道をしよう ものなら確実に報道した側が責められる、そんなイメージ。変なイメージのついていない女優と あのまま結婚していたのなら、たぶん横綱は、あたかもロイヤルファミリーのような 目線を浴びつづけて、いまでももてはやされていたような気がする。

向かうところ敵無しだったあの頃、たぶん本人の自己イメージと、マスコミが横綱に抱く目線は 一致していて、ある種の自己肯定感は、きっと本人の行動をも規定して、模範的な、 スキャンダルとか、間違ってもオカルトなんかとは無縁の存在に横綱をつなぎとめていたはず。

おかしくなったのは、女優と分かれた後の頃から。

アナウンサーと結婚して、横綱には何となく薄汚いイメージがまとわりついて。 「あの人はああいう人なんだ」という目線が報道内容を決定して、 大成功しまくっていた当の本人は、きっと自己イメージと報道との解離に苦しんだ。

認知の不協和は、合理的な説明を要請する。

そこに「合理的な説明」を割り込ませたのがオカルト畑の人達。 周囲の目線が敵に回って、オカルトの人達だけが味方について。

目線はますます本人を「ある形」へと削りこんでしまった。

マスコミ的な権威というもの

スポーツ選手とか、あるいは企業経営者とか。

社会的にも経済的にも大成功して、その周囲にも○○大学教授とか、賞を取った作家だとか、 肩書きに不自由しない人達がゴロゴロしているのに、怪しげな方向に走る人が時々いる。

やっぱりきっかけは、目線の解離。自分はこうなりたいのに、 伝統的な「世間」、マスコミが代表となるそんな人達は、自分の思いとは違った目線。

「敵」はきっと、マスコミから始まって、西洋医学や大学教授はもちろん、賞を取る作家とか、 「普通の」商売をして成功した経営者とか、そのうち全て一まとまり。

マスコミに叩かれた有名人というのは、あるいはそんな「世間」や「体制」を構成する人達を、 一つにまとまった敵、「真理を僭称する怪物」とみなしてしまって、 しばしばそんな体制に反発する人達を味方として頼る。

霊能者とか整体、医学に対する心理学の立場、ある種の東洋医学者、伝統的でない宗教家、 そんな「反体制」の人達は、あるいは「世間」的な価値観に対抗するものとして、 目線の解離に悩む人達、報道に叩かれた芸能人とか、 スポーツの有名人なんかを引き寄せるのかもしれない。

「絶対の一」を目指す弊害

「救う」なんて言葉を未定義に使ってはいけないのだけれど、オカルトに走った芸能人とか親方とか、 世間的な価値観から見ると、どう考えても幸せにはなっていなくて、その人達の不幸せの真横で、 利権を享受してぶくぶく太る金髪のカウンセラーは、その膨らんだ腹を隠そうともしていない昨今。

世間的な、伝統的な価値観を作ってきた業界の人達は、 たぶん「まとめて一つ」に括られる恐怖に対して、 もっと自覚的になるべきなのだと思う。

大規模臨床試験を繰り返して、ただ一つの正解へと収斂してきた この10年ぐらいの西洋医学の進歩は、 福音であったと同時に、ある種の呪いを生んだ。

患者さんと喧嘩になったり、あるいは治療のやりかたが不満足であったとき、 患者さんが「こいつらダメだから他に行く」決断を下そうとしても、西洋医学の領域には、 もはや「他に行く」場所が見つからない。誰かが喧嘩になると、もはやすべての医者は敵。

そんな人達の引き受け手になっているのが、アガリスクみたいなキノコ商売だったり、 いきなりカルトに走ってみたり。この分野に投じた時間も資本も桁外れなんだから、 そんな人たちが病院に対抗できる治療手段を提供できるはずも無い。

たとえばプログラマの業界なんかは、面白い解決手段を提供している。

プログラム言語にはたくさんの種類があって、同じ行為を行うにしても、 異なる言語で記述する手段が常に複数用意されている。

ある人が、どこかの言語に裏切られたと感じても、同じ機能を補完する別の言語が控えていて、 プログラムは常にプログラムであって、まとめて敵対する何か、 真理を僭称する怪物には決してならない。

失敗した相手に「これは完全にエンジニアが無知で無能でクズ。アホでバカ。低脳でワーキングプア。」 なんて気持ちのいい罵声を浴びせても、お互い笑いながら手を取って、それでも前に進んでいく。 言語ごとに違う哲学、違う思考回路を持ちながら、お互い喧嘩しながら共存する、そんな文化がとても うらやましく思える。

たとえばテレビに代表されるマスメディアは、NHKからテレビ東京まで、 複数のチャンネルが最初から実装されているのに、喋る内容はほとんど同じで、 バックグラウンドの哲学も、素人目には区別ができない。

「完璧な一」に収斂する圧力の正体を考える必要があるのだと思う。

喧嘩を繰り返しながら、 それでも違った文化が共存しながら前に進んでいく業界がある横で、一つの完璧な解答を 目指しながら、歩みがどんどん遅れていく業界というのがたしかにあって、 そんな業界はたぶん、もはや「目線のずれ」に悩む人を受け止められない。

幻想としての「こうあるべき自分」

恐らくは「自分はこうあるべき」という目標を設定してはいけないのだと思う。

それはマスメディアが提案する理想の家族像であったり、医師が提案する健康であったり。

大学に進学した直後、いろんな分化や価値観が衝突して、 「こうなりたい自分」と「こう見られている自分」とのギャップが 可視化される場所というのは、伝統的にカルトの草刈り場となっている。

実在するのはきっと、スタイルとしての「こう見られている自分」だけなのであって、 「こうあるべき自分」を仮定して、それを目標にしてしまうと、恐らくはそこが セキュリティホールになって、そこを通じて、他人に自意識を操作されてしまう。

オカルト畑の長い人達というのは、たいていの場合、 オカルトそれ自体にはあんまり興味の無さそうな人が多い。

美輪明宏御大なんかは、恐らくはオカルトが好きなのではなくて、 「オカルトが好きそうに見える私」をスタイルとして 演じているだけで、「こうなりたい私」なんてものは持っていないか、あるいはそれすらも、 スタイルとして「私を持った私」を演じているのだと思う。

ネット文化というのは、「あなたはこう見える」をどこからでも突っ込める、 カルト宗教を主催する人にとっては、ある意味極めて都合がいい場所。

昔からの罵倒合戦に慣れている人達は何とも感じないのだろうけれど、 ネット初心者、あるいは若い人達が集まる場所で、意図を持った人達が複数でチームを組んで、 「あなたはこんなふうに見える」を否定的に突っ込んだ上で、 リーダーが「こうすればもっと良くなる」を実行したら、カルトへの取り込みはかなり 容易に実現するような気がする。

目線に自覚的になるべきなのだと思う。

どうなりたいのかではなく。 誰から見られたいのか。 どう見られたいのか。 どう見られているのか。