正しい道と広い道

たぶんこれからは、自分に出来ることを分かりやすい一言で表現する能力が 問われるようになるし、「分かりやすい一言」を自ら提示できない技術や個人、あるいは集団は、 たちの悪い第3者からのレッテル貼りを避けることができないのだと思う。

2兆度の火の玉の話

2兆度の火の玉が作れたら、何に使う?

小学生集めて、こんなことを聞いてみれば、素直な子なら、「学校燃す」とか「何か暖める」とか。

「もちろんクォークグルーオン・プラズマの生成を試みます」とか、 「あぁ、格子ゲージ理論の話ですね」なんて答えを返す小学生がいたら、 その子はきっと、将来歪む。

超高温を実現するための技術というのは、宇宙の起源を解明する人達から要請された ものなのだそうだ。

技術が生まれた正しい道筋は、宇宙の起源に関する議論があって、 ビッグバン仮説が生まれて、誕生直後の宇宙の状態に関する議論が生じて。

どんな仮説が正しいのか。ビッグバン直後の宇宙を再現する需要が生じて、 結果として超高温、粒子加速器を用いた実験手法や、それを実現するための技術が要請されたのだという。

技術の最先端、現場で働く人達からすれば、宇宙論クォークの話なんて当たり前以前、 そのあたりの知識がない人間が、そもそも加速器に近づくなんてありえない話なんだろうけれど、 こんな「正しい道」はもしかしたら、小学生に興味を持たせて、 将来の物理学者を増やすには難しすぎるような気がする。

宇宙の話に興味を持てなかったそんな子供は、たとえば将来マスメディアに入って、 理解不可能なそんな技術を「有害無益な代物である」と総力挙げてブッ叩く側に回るかもしれない。

「広い道」としての「暖める」

「正しい道」を、たとえば「宇宙論語れない奴は、そもそも高温語っちゃいけないね」なんて やりかたとするならば、「広い道」というのは、「ものを2兆度まで暖めるにはどうする?」なんて 問いかけをする。

まずはやかんでお湯を沸かす。100度を越えると水が蒸発するから、何か蒸発しにくい物質を探す。 「蒸発とはどういう現象なのか?」という疑問が出たら、それを解説しながら、蒸発しにくい 物質と水、何が違うのか、どうやって探すのかを話す。

やかんが1500度を越えてくると、今度は鉄が溶けはじめる。今度は「溶けないやかん」を 探す必要が生じてくる。ガイド役の物理学者は、「溶解とは何か?」を解説しながら、 溶けにくい物質を一緒にさがしたり、それがどうして溶けにくいのか、 真っ赤になったそんな物質を見せながら、また解説する。

温度が2000度を越えたあたりで、今度はガスレンジの限界が来る。酸素バーナーを使ってみたり、 あらゆる高温グッズを投入しても、たぶん4000度ぐらいに「燃焼の限界」があって、 今度は「もっと熱く燃える物質」を探す必要が出てくる。燃焼とは何か、「熱い」とは そもそも何なのか、そんなことを喋りながら、そろそろ電磁力の話題が混じってくる。

1万度までの話。1兆度までの話。2兆度に達するために必要な技術。

宇宙論を越えて2兆度に到達するのは難しいけれど、たとえば小学生相手に「どんどん温度を上げる話」を はじめて、温度が上がるたびに生じる壁を一緒に越えながら2兆度まで引っ張れるなら、 たぶんそこまでついてくる子供の数は、宇宙論の壁を越える子供の数より多くなる。

たぶん、単純に「暖めたい」から物理をはじめた学者なんていない。こんな道のりは正しくもなんともないし、 燃焼とは何か、溶解とは何か、熱を閉じ込めるにはどんなやりかたが考えられて、 なぜ今は電磁力を使うのか、そんな「なぜ」に答えるための知識なんて、「正しい道」から見れば 不必要なもの。

学者が歩んで、やっと到達した山の頂点。そこに至る「正しい道」を説くことに比べれば、 頂上につながる「広い道」をさがしたり、そんな道を案内することは面倒で、 それは「正しさ」からは遠い行いかもしれないけれど、いろんな方向から来た登山客に対して、 その人にとっての「広い道」を示せるガイドは、きっとその山に関する本当の専門家なのだとも思う。

「広い道」の見通しの良さ

技術の山頂、「それで何ができるのか」を表現する一言は、 山を頂上まで上った人が自ら定義しなければならない。

山を地上から眺めたところで、もしかしたら頂上は雲に隠れて見えないかもしれないし、 頂上から見た風景のすばらしさというのは、頂上に立たないと絶対に説明できない。

山登りの道は険しいし、あるいはその道は、今地上にいる人達の反対側に入り口があって、 山に登るには、まずは山の裾野をぐるっと半周、長い道のりが待っているかもしれない。

頂上にいる人達が、たとえば下界の住人にむかって「残念だけどその場所全然違うから。 反対側に回らないと案内できないよ」なんて声をかけたら、下界にいる人はたぶん、 そもそも山に登ることをあきらめるだろうし、「あんな山、下らないよ」なんて感想を、 「山から帰ってきた者」の声としてみんなに伝えるだろう。

山の頂点に立った人というのは、自分にできること、自分達が達成したことを一言で、 それも見通しのいい言葉で表現できないと、「山の高さ」やすばらしさといったものは、 誤解を受けて伝わってしまう。

粒子加速器に関する技術の正しい表現は、「宇宙の起源を解明できる」。 これは正しい一言であったとしても、それだけではたぶん、山のすばらしさは伝わらない。

大きすぎるものは測定できない。「宇宙の起源」という正しさは、 たぶん初心者の想像力には大きすぎて、山を上ろうとする人にとって絶壁として立ちふさがる。 宇宙論を越えた先、その起源を解明する面白さとか、 加速器に投入された技術のすばらしさを体験する前に、 多くの人が「宇宙ヤバイ」であきらめてしまう。

「2兆度の火の玉」という表現は、正しくもなければ技術の全貌を表現しているわけでも ないけれど、たぶん頂上までの目線をさえぎるものが少なくて、いろんな人の興味を保ったまま、 その人達を頂上まで引っ張れるような気がする。

「広い一言」が持つ力

売春と犯罪告白に特化したソーシャルネットワーク、「mixi」がここまで急成長した原因は、 「友達が作れる」という一言の分かりやすさに尽きる、と看破した意見を読んで、 なるほどなぁと思った。

mixiの魅力は「友達」なんかじゃなくて、人間の最も面白いところ、弱者差別とか嫉妬とか、 同調圧力の強制であったり、建前使った足の引っ張りあいであったり、そんなドラマを お腹いっぱいになるまで見せてくれること。「醜い人間の草刈場」という正しい一言では、 残念ながらmixi を見通しよく表現するには弱いかもしれない。

世の中が多様化していく流れの中で、たぶん技術者に許される表現はますます短くなって、 ちょっと前まで論文一本、せめてレジュメ一枚の分量が許された説明も、今では「一言」。

たぶん一行ではもう長すぎて、技術を知らない誰かがもっと「分かりやすい」一言説明を貼り付けて、 世間の評価はそのラベルによって決められてしまう。

自分に出来ることを一言で表す能力、 頂上までの見通しがいい、いろんな人の想像を刺激する一言で表現する能力が、 これからは全ての技術職に問われるのだと思う。

「2兆度の火の玉作れるよ」とか。「友達ができるよ」とか。「テレビより面白い物が見せられるよ」とか。

医師にできることは? 自分にできることは?

田舎の一般内科医に「これができるよ」といい切れる一言は、何なのだろう?