歪む時空のこと

「腕組みしたお父さん」問題

都市部では昔から、うちみたいな田舎でも、この数年増えてきた若いお父さん。

朝お父さんが出社して、お昼に子供が熱を出す。夕方遅く、お母さんが風邪ひきの子供を 近所の病院に連れて行って、夕方すぎて、まだ熱が下がらないから、夜10時ごろに外来へ。

「午前中から熱があって、近くの医者に行ってもろくに診察してくれなくて…」なんて。

前医を罵倒するのは何かの免罪符になっているところがあって、 夜中に子供さんを連れてくるお母さんの人称代名詞は、必ずといっていいほど「医者」であって、 間違っても「病院」とか、「先生」なんて言葉は夢のまた夢。

本職の小児科医がみて様子をみた子供さんに、その4時間後に診た内科医が できることなんてあんまりなくて、 返事はいつも「もう少し様子をみましょう」。

夜11時。働いて、少し酔っ払ったお父さんが帰ってみれば、朝元気だった子供がぐったりしている。

認知の不協和は、合理的な説明を要請する。お父さんは、 「医者がサボっていい薬を出し惜しんだから うちの子供が苦しんでいる」なんて合理的な説明考え出して、真っ赤になって病院にくる。

夜の12時。救急外来が一段落して、4時ぐらいから来る眠れないお年寄りの相手する前、 少しだけ休もうかななんて、当直医が考える頃。

お父さん達は、しっかり見張る。真っ赤な顔で腕組んで、眠い目の医者を上から見下ろす。

雰囲気的に「外でお待ちください」なんて言ったら殴られそうで、もう涙目になりながら 診察して、「やっぱりもう少し様子をみませんか…?」なんて、不祥事ばれた官僚答弁の気分。

「東京の家族」問題

うちは地方都市。東京はそこそこ遠いけれど、列車を使えば休みを利用して 見舞うことができるぐらいの距離。

わざわざ東京から見舞いにきました」

どういうわけだか、外来中とか、検査中とか。もちろん帰りの電車は待ってくれないから、 遠くから来た人達は、「今のこの場で」医者の説明を求める。

重たい話。チューブ栄養が必要だとか。自宅で引き取るか、施設探すか考えて下さいだとか。

東京の人達はびっくり。「去年はこんなじゃなかった」だとか、 「親族が交代で診ることになっていたのに…」なんて、その「親族」は自分達だけ 安全地帯だったりして。

やっぱり出て来るのは認知の不協和。

東京の人は理解が良くて、目の前の医者責めてもいいことないのはよく分かってるから、 叩く相手は自分の身内。

実家に寄って、東京に帰るその間際、「もっとちゃんとやれよ」だなんて、余計な一言。

これをやられると、その後で地獄をみるのは、やっぱり主治医だったりする。

歪む時空のこと

ずっと一緒にいる人と、毎日みる人と、年に2回ぐらいしか顔をあわせない人とでは、 もはや時空間が共有できない。

時間軸のずれを言葉で解決するのは難しくて、いくら説明したところで、 相手はもはや「あいつが悪い」で固まってるから、何を言っても屁理屈にしか聞こえない。

残念ながら、最も高いサンプリング周波数を持った人が、 必ずしも最も強い発言力を持てるとは限らない。

社会が忙しくなったのか、時間軸のずれはひどくなるばかり。

新興住宅地が近くにできて、子供を持ったご家族がたくさん増えてきた。 それはもちろんすばらしいことなんだけれど、どのうちもせいぜい4人家族で、 下手すると共働きで。

お父さんも、お母さんも、もちろん子供達も保育園も病院も、同じ時間軸を 共有している人達が誰もいなくて、ずれは大きくなるばかり。

「雄」としての強さを発揮する場所が、今の社会には病院ぐらいしかないのかなとも思う。

誰もが強さを表現したくて、でもそれには大義と安全とが必要で。

子供の健康、親の健康なんて正義。罵倒する相手にもまた、罵倒するに足る権威があって。 医者だとか、身内なんて無力なもんだから、叩いて噛まれて、 自分が怪我する危険も、まずありえなくて。

去勢が進んだ社会の中で、それでも強さを表現したい、「雄」になりたい、 家族に「雄である自分」を見せてやりたいなんて思いを誰かが持ったのだとしたら、 あるいはそれを表現するメディアとして、病院という場所が選ばれてしまったのかもしれない。

50もすぎた部長級の医師が当直していても、最近は「腕組みした自分より若いお父さん」に にらまれる機会が増えてきた。

みんな自分の仕事がしたいだけなんだけれど。