流す会話と切る会話

おしゃべりには「流れ」というものがあって、流れている間、しゃべっている人どうしは、 お互いの立ち位置を歩み寄らせようと、お互いを探りあう。

流れが止まると、今度はお互いの査定が始まる。どちらの側がより論理的なのか。 どちらの知識がより正しいのか。

正しさゲームはお互いを不幸にする。 流れはできれば止めたくなくて、バックグラウンドではいろんなことを考える。

流したい時のやりかたとか。

上下の関係をはっきりさせる

お互いが「対等」という前提で会話を始めると、どこかで絶対に流れが切れる。

おしゃべりの流れも、水の流れと同じく、上から下への勾配に従って流れを作る。

たとえ社会的な立場が等しい相手であっても、たとえば年齢が上だとか、 その病気については相手のほうが専門だとか、何かしら理由をつけて「主」と「従」とに 立場を分けることを意識すると、会話がつながりやすい気がする。

相手から「上」を宣言されるのは不愉快なことだから、主従関係をこちらから宣言するときは、 たいていの場合「自分が従」を宣言する形になる。

おしゃべりを「切る」のが好きな人と、「流す」のが好きな人とははっきり分かれていて、 流す人というのは、おしゃべりを始めるときには相手の下に潜り込もうとする。

人工衛星スイングバイにちょっと似ている。「主」に回ったほうは、 「従」の意見を聞いて、自らの重みで、その意見に勢いを加える役割。「従」の側は、 「主」の重さに勢いで対抗する。

会話をするとき、だからたくさんしゃべっているのは「従」の側であって、聞き役は「主」。

自分もまた、いろんな場所で、いろんな会話をするけれど、いつも喋る側。 どう思われているのかは分からないけれど、自己規定は常に「従」であって、 「主」に回ったことはほとんどない。

絶対に否定しない

相手の主題であったり、論理の流れや考えかたを否定してはいけない。 即興演劇の方法論に必ずでてくるやりかた。

たとえば遠くにいる猫を見て、「あれは犬だね」なんて相手が宣言したときに、 「いやあれは猫ですよ」なんて否定で返すと、会話が止まる。

即興劇で会話が止まると白けてしまうから、こんなときには「やあ、あの犬はニャーニャーうるさいですね」 なんて返しかたをすると、主題が膨らんで、会話が続く。

もちろん猫は猫だから、それを犬だと指摘した相手は絶対に間違っているのだけれど、 「猫ですよね。間違いを認めますよね。」なんて「。」を重ねると、最後には そのおしゃべり自体が「。」になってしまう。

猫に対して「犬」と定義されたら、今度は「ニャーニャー鳴く犬」に膨らませて、 相手が「間違った」と返したら、今度は「その誤謬を生んだ、あの猫の中にある犬要素」 について話題を振る。

「否定しない」を守るだけで、おしゃべりはそれなりに面白い方向に進む。

ねじれの位置を保つ

定義には原則論で返し、原則論に対しては自分の経験で返す。

相手の経験が例外的であることを指摘しようと思ったならば、 自ら信じるところの原則論を述べた上で、 その経験の特殊さを面白がってみせる。

議論は常に「ねじれの位置」を保たないと、流れが切れる。 相手が何か原則論をしゃべったとき、 自分がそれに反対する立場の原則論を展開すると、議論は止まる。

止まった議論から生まれるのは、結局のところ正しさゲームとか、 優越感ゲームとか。ゲームに勝ったところで、得られるものは「勝った」という事実だけ。 おしゃべりを通じて得られたはずの何かには、絶対に届かない。

チープデザインな歩行ロボットのこと

歩行する人間型のロボットといえば、本田技研の「アシモ」。 アシモは制御技術の固まりで、あらゆる関節にセンサーがついていて、 遊びのない、精密な部品で関節を作って、全てを制御することで、歩行を得ている。

人間の歩行というのはいいかげんにできていて、たいした制御を行っていないらしい。 関節の柔らかさとか、足の柔らかさ、あるいは地面の平坦さとか、重力という条件、そんな 「ゆるさ」を利用して、アシモに比べてはるかに低コストで、歩行を実現しているらしい。

デルフト大学の研究者は、ロボットにもそんな「ゆるさ」を 導入することで、アシモの歩行を低コストで実現した。

厳密な部品と制御の固まりであるアシモに比べれば、デルフト大学の歩行ロボットは 安っぽくて、なんだか玩具みたいな仕上がりだけれど、そんないい加減さ、 「チープさ」というのは、ものすごく魅力的に見える。

ゆるい会話の目的というのは、「アシモが歩く」という厳密な事実を相手に 認めさせることではなくて、むしろこんなゆるいロボットが歩けるような「路面」を、 お互いに共有することであったりする。

お互いが別の人間である以上、立ち位置の違いを埋めることはできないけれど、 路面の粗さであったり、傾きであったり、そんな感覚をある程度揃えることで、 恐らくはコミュニケーションに要するコストは劇的に低下する。 同じコストを使って、おしゃべりを通じてはるかに多くの成果を生み出すことができるはず。

デルフト大学のロボットも、あるいは人間も、たとえば水の中とか、 宇宙のような無重力空間に放り出されたら、 たぶんまともに歩けない。ゆるい制御というのは、制御系の一部を環境に依存することで、 自分の制御コストを減らすやりかただから、想定していない環境に放り出された時点で、 そのやりかたは通用しなくなってしまう。

全てを厳密にして制御するやりかたと、構造や環境自体に制御の機能を持たせるやりかたと。 厳密な定義と「切る会話」を好む立場と、ゆるい制御で「流す会話」を志向する立場。

アシモはたぶん、防水さえしっかりすれば水の中だって歩けるし、人間みたいな生きものが、 あるいは汎宇宙に向けた究極生物を目指そうと思ったならば、 たぶんどこかで「遊び」を捨てないといけない。

それでも生き物は、どちらかというと「ゆるい」制御を好む種族が多くて、 そのゆるさはたぶん、地球上なんていう限定された空間では、 結果として十分に通用しているように見える。

それで十分なのだと思う。