良心なんて最初から無かった

昔のお医者はやる気があったとか。内からほとばしらんばかりの良心にあふれてたとか。 爺医の人達のお茶のみ話。

よかった昔。医師は良心と奉仕、患者は慎みと公共心持ちよって、お互い美しい日々。

時代が代わって、医師は良心失って、患者は慎み無くして下品になって。 お互い大切な何かを失って、だからこそ医療はこれだけ殺伐としたなんて。 問題は全部現場のせいになって、司法とマスコミだけが高笑い。

最初は誰でも獣

良心とか道徳とかいう概念は、状況を説明するために事後的に付加された 考えかたであって、生得的に実装されている性質なんかではないのだと思う。

たとえば本能は弱肉強食ルールを叫んでいる状況で、実際には協調しながらの 行動のほうが都合がよかったり、目先の利益を抑えこんで考えたほうが、 後々のメリットが大きかったり。

直感が叫ぶ「獣の正解」と、状況から選択された、「人間の正解」と。

道徳とか良心なんて言葉が引っ張り出されるのは、獣レベルでは「不正解」のシグナルを 出しているのに、目先の不利益を飲み込んで、誰か他の人との協調を選ばざるを得ない状況。

獣層と人間層で生じた認知的不協和を解消するために、 みんな頭の中で合理的な説明を考える。

理論上、山登りのルートは無数に考えられるけど、 実際には何本かの登山道に収斂してしまうように、 認知の不協和を解消するための説明もまた、本来は無数に考えられても、 それらはやがていくつかの代表的なやりかたに収斂してしまう。

収斂したそんな説明が、道徳であったり、良心であったり、 あるいは理性であったり。

どれも合理的ではあるけれど、科学的な事実とは異なった何か。

「良心を持った医師」が消えたわけ

要するに昔は、社会の中で「良心を持った医師」として 振舞うことに、何らかの利益があった。

恐らくは患者さん側も、そんな医師の振舞いを強化することで何らかの利益が得られたから、 医師は良心的に振舞って、患者さん側はそれを賞賛して、 社会には自意識の通貨が循環して、経済圏を作っていた。

お互いの行動がお互いを強化しあう、こんな共依存関係が崩れたきっかけは、 権利意識だとか、生意気な医者だとか、マスコミの陰謀なんかではなくて、 単純に医学が発達したことなのだと思う。

たとえば冷蔵庫のなかった大昔。食材の保管をどんなにていねいに行ったところで、 傷みの早い部分は必ずあるし、それらを捨てていたら、たぶん料理屋さんは採算がとれない。 昔の料理屋さんでご飯を食べれば、運がよければ新鮮な食材にありつけるけれど、 運が悪ければ、痛んだ食材を出されたかもしれない。

冷蔵庫が無かった昔と、技術が発達して、食材の全てを冷蔵可能になった現在と。

お互いがそれぞれ10人のお客さんに料理を出して勝負をすると、 「一番おいしい料理」については、昔も今もいい勝負。現代技術は、もしかしたら 昔の職人に勝てないかもしれない。

ところが「一番ダメな皿」で勝負をすると、これは間違いなく現代の料理人のほうが いい料理を作るはず。技術の進歩は、あるいはピーク性能を変えないけれど、 「皿ごと」の偏差は少なくなって、平均性能は間違いなく向上させる。

医療の進歩もまた、もちろん「ピーク」も向上したけれど、何よりも平均値の進歩。 技術の進歩は、医師の振る舞いが、医療行為の結果に寄与する割合を減らした。

主治医自ら試験管振ってた血液検査も、今ではマウスクリックひとつ。 いろんな技術が進化して、上手な医師も、そうでない医師も、 今ではできることはみんな同じ。おだてても、罵倒しても、受けられるサービスはそんなに変わらない。

患者さんには、医師の振舞いを賞賛しなくても同じ結果が得られるようになって、 医師の側もまた、他の医師以上に頑張らなくても、同じ結果が出せるようになった。

技術の進歩は良心を消した。

「良心があった昔」たぶん、本来は不必要な賞賛、本来不必要だった頑張りというものを、 それぞれ「公共心」、「良心」なんて名前を付けて合理化してきた状況。 今ではそんな物語を作らなくても、無理しないで同じ結果が得られるようになっただけのこと。

医師が良心を失ったわけでも、患者さんが公共心を失ったわけでもなくて、 そもそもそんなものは最初から存在しなくて。

あくまでも生じたことは、技術の進歩。

極限値に収斂する業界の未来

無限の発展が期待できるような業界と違って、医療みたいにある目標を極限値にして、 そこに限りなく収斂していくような発展のしかたをする業界は、 技術が進むほどに進化の速度が遅く見えて、ユーザーと技術者との疑心暗鬼が深まっていく。

たとえば医療以上に進んでいるのが、警察業界。

警察機能が完璧になって、検挙率がほとんど100%になったところで、 殺す人は殺すし、騙す人は騙す。最後に残るのは閾値の問題だから、 警察の捜査力がどんなに神がかるようになったところで、「境界ギリギリ」を目指す人は減らない。

完璧を目指せば目指すほど、その集団が動くときのコストは大きくなる。

警察組織は、個人として接するときには結構いいかげんなやりかたが通用するけれど、 一度公式に動き始めると、ものすごい数の人が投入される。

病院外で亡くなった患者さんは、基本的に警察の検死を受ける。 「病死の疑いが強い」のならば、警察の人も個人。みんなご家族に一礼して、 手続きどおりの検死を行って、案外簡単に事務処理が進む。

ところが死亡診断書に「外因死の疑い」なんて書いた日には、その日一日潰れてしまう。 警察官は倍増するし、いきなり目が怖くなる。 言葉の全てに言質がとられて、さっきまでの世間話が、いつのまにか「調書」になって。

確実さが求められる業界の確実さを担保しているのは、莫大な手続きと、書類の山。 それを人海戦術でこなすから、巻き込まれる人の数も莫大だし、こっちも大変。

警察当局に「事件性あり」で行動してもらうのは、すごく大変なのだそうだ。

素人に警察を動かすなんて到底無理で、刑事立件に慣れている弁護士の人が警察に日参して、 あまつさえいろんなルートの圧力駆使して、4回目か5回目のお願いで、やっと「刑事事件」 として公式に動き出すのだという。

極限値に収斂していく業界は、たぶんその進歩が究極に近づくにつれて、 外から見るとどんどん「怠惰」になっていく。

警察を公式に動かすためには、たぶん莫大な予算であったり、マンパワーをつぎ込む必要があって、 それをやり始めると止められないし、たぶん日常業務が回らなくなる。

ストーカー殺人なんかで 警察の怠惰が叩かれていたけれど、恐らくそれは、 「刑事」に舵を切るコストがあまりにも高くなってしまって、 もはや現場の判断では、それを決断できなくなっているんだと思う。

良心無くした医者は、今は金目当てで怠惰になった。これもまたきっと、技術的必然。

まとめ

たぶん最初から、良心とか奉仕の心、感謝の心も存在しなかった。

それを仮定したほうが社会コストが少ない状況があって、 技術が進歩して、今はそれがなくても大丈夫になって、良心は姿を消した。

良心ルールがあった昔、それにすがって社会回してきた人達にとっては、 後に続く世代も同じ概念共有してくれたほうが、たぶん低コストで品質の高い労働力を得られた。

手段がいつしか目的にとって変わって、本当は存在しない、 不合理を納得させるための物語でしかなかった道徳とか公共心が、 いつしか利権を隠した真実として、教育されるようになった。

今の社会にはそんなもの必要なくて、むしろそれにすがっている人は割り喰ってばかり。

無いもの信じて失敗した人達が、最初からなかったものを今さら探そうとするから、 犯人さがしが始まって。そんな認知的不協和を解決するための新しい物語、 技術が進んだ現在の道徳というのが、あるいは「すべて医者が悪い」とか、 「警察は全員腐ってる」とか。

安全率とコストとの見直しをするべきなのだと思う。確実さをわずかに上げるのにも 莫大なコストがかかる昨今だけれど、進歩した技術は、安全率のわずかな 低下さえ容認できるなら、本来莫大なコスト削減も実現できるし、 「安全はお金で買うもの」なんて考えかたも広まるはず。

「道徳はマスコミと日教組の陰謀」なんて、新しい道徳をみんなが受け入れられるなら、 世の中ずいぶん変わると思うんだけれど。