アイコンとしての道徳のこと

道徳とか良心といった概念は、ちょうどパソコンのデスクトップ画面に並ぶ「ゴミ箱」とか「ファイル」、 あるいはIE のアイコンみたいなものなんだと思う。

パソコンのデスクトップ画面でアイコンをクリックすると、Word が立ち上がって文章を打てる

こんな操作は、アイコンとか、Word なんて概念を持ち込まなくても、 本来はすべて2 進数だけで記述できるけれど、それを理解できる人はたぶん、ものすごく少ない。

「理解のシンプルさ」と、「概念のシンプルさ」とは、しばしば相反する。

2 進数の概念は極めて単純だけれど、それを使って複雑な動作を記述するのは極めて難しい。 コンピューターの動作には本来関係ない、「ファイル」であったり、「Word 」みたいな概念を 導入してやると、概念は複雑になる代わり、一連の動作を容易に記述したり、 あるいは理解できるようになる。

アイコンを信じる人

アイコンの考えかたは便利だけれど、それはあくまでも理解のために作られた概念。 本来の動作とは異なっているし、少なくともそれは、真実として語られるものであったり、 アイコンの操作にいくら習熟しても、パソコンの機能は、アイコンが定義している以上には 広がらない。

アイコンを使った説明は、便利で分かりやすい。日常生活でパソコンを使う分には、それで全く困らない。

アイコンを通じてパソコンを理解している人から見ると、デスクトップ画面のバックグラウンドで おきていること、アイコンの概念を回避した動作説明は、たぶん冗長な屁理屈にしか聞こえない。

理解の深さは、必ずしも生産性の高さを意味しない。

たとえば生産性を「日本語で文章を書く」ことと 定義するならば、プロの作家のほうが、プログラマの人よりも、同じ時間で多くの文章を書けるはず。 その作家があるいはアイコンしか知らなかったとしても、「パソコンを使って仕事をすること」は、 その人のほうが得意かもしれない。

みんなパソコンを使って、インターネットで遊ぶ。アイコンしか知らなくたって、 クリックさえできれば何だってできるし、blog 時代、パソコンを誰よりも理解しているであろう、 本職のプログラマよりも面白い発言をしたり、人気を集めている人だってたくさんいるはず。

アイコンが破綻するのは、パソコンを取り巻く状況が変化したとき。

たとえば何かの理由でLAN ケーブルが外れてしまうと、そのパソコンはネットにつなげなくなる。

アイコンしか知らない人は、IE のアイコンを連打する。 どんなにすばやくアイコンをクリックしても、アイコンはインターネットにつないでくれないし、 外れたケーブルが自然に繋がることもない。

クリックさえすれば、インターネットにつながる

こんな「御利益」を通じてパソコンを理解していた人は、状況が変わって御利益を得られなくなっても、 もしかしたらクリックする以外の動作が想定できない。腕が折れるほどにマウスクリックを繰り返した そんな人は、もはや自分に御利益を与えてくれないパソコンを嫌いになったり、パソコンを通じて つながっていた世界全てを憎んでしまう。

アプリケーションとしての神様のこと

伝統宗教というのは、ご利益回避の理論付けの歴史。

何か上手くいったことがあって、それを神様のせいにすれば人が集まるけれど、 御利益を得られなくなった神様からは、人が離れてしまう。

「御利益を与える存在」という神様の定義は、それが与えられなくなった瞬間に無効化してしまう。

伝統的な宗教家は、神様の役割が発揮される状況を限定することで、 「神様の実在」と「御利益の不在」という矛盾の解決を図った。

たとえば仏教は、人の死に意味付けを与えてくれるけれど、馬券を外してしまった人とか、 パチンコで大損した人に対しては、たぶん「自業自得」としか応えてくれない。

エスが生きていた頃にも、ワイン飲みすぎて二日酔いになった人だっていただろうけれど、 そんな人がイエスにすがりついたところで、たぶん「医者行け」としかいわなかったはず。

「神の実在」を信じない宗教家はいない。神の言葉を語る宗教家の下には、 それなのに「神様に裏切られた」としか思えない、世の中の理不尽が世界中から 集まって、それに対する解説を求められてしまう。

宗教とはつまり、神様が登場しても矛盾を生じない状況を考えるための学問。

伝統宗教が生み出した神様は、だからこそ出現状況が限られる代わりに、 その概念にはアプリケーションとしての実体があって、神様の管轄範囲で 困ったことがおきたとき、その概念は役に立つ。

世の中に偏在する神様概念は、アイコンとしての神様。

アイコンは、それが上手くいっているときには役に立つけれど、 物事が上手く行かなくなったときには、それはただの画像にしかすぎないから、 実体としての力を持ち得ない。

もう一度道徳の話

全体最適と、状況最適との間にギャップを感じたとき、 おそらく人間には、それを合理化する欲求が生じる。

そんなとき、たとえば俺様はモラリストだからとか、 あの人には勇気があった、良心があったとか、 そんな話が出てくる。

残念ながら、抽象化のプロセスには正しいやりかたと間違ったやりかたとがあって、 間違った抽象化が行われたときのほうが、しばしばその応用範囲は広くなって、 そうして作られたアイコンは、「信仰される対象」としての変な力を持ってしまう。

「道徳的になりましょう」「良心に目覚めましょう」なんて、 たとえば自分たちが受けた、昔ながらの道徳教育。

「水になったぶどう酒」 フランスのとある村で、えらい先生が別の街に引っ越すということで 街の皆でぶどう酒を各自一杯ずつプレゼントすることになり、 街の広場に大きなカラの樽が用意された。町人はそれぞれ用意した 一杯のぶどう酒を、順番に樽の中に入れた。 先生は町人達にお礼を言い、プレゼントの樽を持って引っ越す。 新居に移って数日後、先生が樽のぶどう酒を飲もうと樽についている蛇口を ひねると、中から出て来たのはぶどう酒ではなく、ただの水だった。 町の人は先生にひどいことしたよね(´・ω・`).

自分達の頃は、たとえば「傷ついた先生の気持ち」に共感させられたり、 村人がそのことを知ったら、どんな後味の悪さを味わうか、なんて想像させられたり。

みんなが良心持てば、不正もなくなるし、世界は平和なんて考えかたは、 「インターネットにつなげなくなったら、IEのアイコンを毎秒16連射すれば、 きっと再びつながるようになります」なんてパソコン教室で教え込んで、 生徒さんに腕立て伏せを強要するようなもの。

もちろんそんな行為は正しくも何ともないけれど、自分も含めて、道徳とか、良心の存在を 一度信じてしまった人は、恐らくはこれと同じような考えかたに陥っているのだと思う。

道徳を信じて、それを信じて裏切られることに疲れた人は、もしかしたらたぶん、 技術的な解決とか、構造的な解決というものを、モラルに反した 邪悪なものとしてとらえるのかもしれない。

IE のアイコンを連打しつづけて、インターネットにつなごうとしない パソコンを睨みつけている人の側に立って、 「LANケーブル抜けてますよ」なんて指摘をしたところで、素直に感謝される人は、案外少ない。

腕が疲れたその人は、あるいはもう一度アイコンをクリックするかもしれないけれど、 たぶんその人はパソコンが嫌いになるだろうし、棒のように疲労した腕を抱えて、 「もっとパソコンのことを深く知りたい」なんて欲求は、たぶんおきない。

学校の道徳教育では、ぜひとも「社会のバックグラウンドでおきていること」の説明を してほしいなと思う。

道徳とか良心とか、あるいは「運のよさ」を担保してくれる神様とか、 そんなアイコンはたぶん、日常生活の中に自然発生する。 実際におきているのは利己的振る舞いの相互作用であったり、あるいは単なる偶然であったりする、 そうした積み重ねが、どうやったら道徳概念に帰着するのかを解説してほしい。

複雑な概念でシンプルな理解を行う、アイコンを通じた世界把握を強化された人達は、 バックグラウンドでのトラブルに対して、もはや有効な介入ができない。

サービス業の現場では、たぶんこんな問題があちこちでおきていて、 構造的に、状況的に、もはや良心だとか道徳の出番なんかなくなっているのに、 良心や道徳を通じて社会を理解している人には、それが「現場のモラル低下」にしか見えないし、 アイコン信じる人達から出されたアイデアは、しばしば何の役にも立たないし、 あるいは現場にもっと悲惨な結果をもたらしたりしてしまう。

御利益を返さないアイコンを連打することに疲れた人達は、その無力さのぶつけ先を失って、 たぶん世界そのものを憎み始める。

憎しみとか疲労感が蔓延する昨今、道徳の教科書とか、道徳教育というものは、 それだからこそ、今でも意味があるのだと思う。

「水になったぶどう酒」の話から、たとえば先生が確実にワインを飲むには どんなルールを実装すればよかったのか、押し付けがましくならない、 相手の面子を潰さないようなルールの提案は、どうやって行えばいいのかなんて。

パソコンの授業で、小学生にOS をスクラッチしてもらうのは難しいけれど、 こんな問題から、たとえば「私はみんなの顔を思い出しながらワインをいただきたいので、 一人一人名前を書いた袋でワインを下さい」なんてお願いしてみるだとか、 広場に用意するのは樽ではなくてガラス瓶にしてみるだとか。

道徳や良心を否定することは、「悪く」振舞うことを肯定したりはしない。 良心がアイコンならば、悪徳もまた、ただのアイコンに過ぎないはずだから。

アイコンとしてを信じる練習ではなくて、アイコンを疑う練習、状況を解決する アプリケーションとしての力を持ったルールを記述するための勉強なら、 道徳の授業もまた、ずいぶん面白くなるような気がする。