診療における価値動作

動脈穿刺の秘訣

  1. とりあえず動脈を触れる
  2. 触れた指の力を徐々に抜いていく
  3. 動脈は丸いので、最後まで触れている場所の真下に中心がある
  4. そこを狙って穿刺する

心カテをするには、動脈を穿刺できないと話にならない。肘の動脈なんかは結構深いところにあって、 慣れない人はまずこれができなくて、時間がかかる。 心カテの手技時間そのものは10分もかからないのに、 穿刺に時間取られてもう10分かかったりして。

昔から穿刺が下手だった。刺しかたを工夫してみたり、 狙いを定めて、皮膚の下にある動脈を、心の目で見て…なんて。

部下のダメ加減を見かねた上司から教えていただいたのが、上のやりかた。

教えられてしまえば当たり前のことなんだけれど、「動脈の真ん中に針が刺さる」 という結果にたどり着くためには、必ず通らなくてはいけない工程というものがあって、 見える人にはそれが見えるけれど、見えない人には、どうやってもゴールしか見えない。

ゴールにたどりつくための道が見えない人がゴールを目指しても、 地図なしで山の頂上を目指すようなもので、上手く行かない。

上司から「地図」をいただいて、それでもやっぱり穿刺は下手だったけれど、 見えていなかった何かが、少しだけ見えた気がした。

工程ばらしが得意な人は教えるのが上手

一つの成果が出るまでの工程を、たとえば 10 のシンプルな動作に分けて記述することができる人は、 黙ってその成果にたどり着いてしまう人よりも、誰かに「成果の出しかた」を教えるのが上手。

本能で成果を出してしまう人、成果が出るまでの過程を記述できない人というのは、 たぶん「成果が出ないことを叱る」ことでしか人を教えられない。

中間工程を分割して記述できる人は、その人に見えるいくつかの工程のうち、 正しくできた部分をほめながら、間違った部分を矯正し、成果へと導いていくことができる。

そもそも人に教える必要がないのなら、工程を記述する必要もないのかもしれないけれど、 成果に再現性を求められたり、成果をより改良する必要があるときは、 やっぱり記述は大切。

価値動作の考えかた

どの工程に意味があるのか ?

工程ばらしが行われると、記述された工程それぞれの価値を査定することができる。

「価値動作」というのは、その動作が成果に直結していて、絶対に外すことができない動作。 裏を返せば、それ以外の工程は省略できるし、省略すればそれだけコストも下がるし、 場合によってはそのほうが、コスト以外のメリットを生むかもしれない。

手技を行う側にとっての意味ある動作と、対価を払う側にとって意味のある動作とは、 しばしば異なる。

慣れない術者は、見えない動脈を前にして、しばしば考え込んでしまう。 慣れていない人にとっては、この工程は大切なものだけれど省略可能なものだし、 患者さんにとってのこんな工程は、「自信無さそうな医者が黙ってる」 としか写らない。

行為の評価というのは、本来その効果を受ける側からしか評価できない。

教官の授業を評価するなら、それは教官でなく学生に意見を聞くべきだし、 ある行為が良いことか悪いことかを決定するには、その行為を行った人の言葉ではなく、 その行為を受けた人の意見を聞かないといけない。「よかれと思ってやった」とか、 「自分としては最善を尽くした」という行為者の内面は、 行為を受けた側からは見えないし、意味をなさない。

医療にとっての価値動作

問診して所見とって考えて、考えてから検査を出して、検査を見てからまた考えて。 考えに考え抜いて、やっと一つの病名にたどり着いて、それから薬を処方して。

医師は考える。原因やら、病因やら、病理やら薬の作用機序やら、一生懸命考える。 考えに考え抜いて、教科書どおりの薬を出す。

最初から教科書の正解読んで処方出した医者と、考え抜いた医者と。 いいかげんな思考回路を持った医師と、「誠意ある思考」を行った医師と。

治療を受ける患者さんの側から「診療という行為」を論じたとき、 果たしてこの「誠意ある医師の思考」というものには、意味を見出せるのだろうか?

工程ばらしは、価値動作を洗い出す。診療という行為の成果を「治療法の選択」に おいた場合、問診、検査あたりはかろうじて価値動作の範疇。検査を提出して以降、 実際に処方箋が切られるまでの思考過程は、あるいは全て「無価値」として査定されるかもしれない。

行為の評価は、行為の受け手目線で行わなくてはならない。

患者さんの視点から医師の価値を査定すると、反射神経だけで診療して、 余った時間をリップサービスに回す医者というのは価値が高い。 まじめに考えて診療する医師、寡黙だけれどよく考えて、 正しいやりかたで結論にたどり着く医師というのは、 患者さんにはたぶん、その「よさ」というものは伝わらない。

用材性のこと

たとえば打つための釘や木がない、ただそこにある道具としての金槌には価値がない。

椅子やタンスを作ったり、あるいは人を傷つけるための凶器としてであれ、 金槌というのは、それが役に立つ相手との関係が成立して、初めてその意味を持つ。

ただそこにあるだけの道具、何かの効果につながらない思考というものには、 だからこそ意味がなくて、それは本来、省略可能、あるいは有害なものとして考えないといけない。

要請されてもいないのに、内面的な思考を表に出すと、たいていろくなことがおきない。

痴呆がひどくて点滴ができない。糖尿病の管理が悪いから、薬が効きにくい。

患者さんの目線から見て、「点滴ができない」、「薬が効きにくい」は客観的事実。 痴呆やら糖尿病やらは、それは医師側の事実としてあるのかもしれないけれど、 患者側の事実との因果関係を証明できないから、患者側からは医師の内面的思考にしかうつらない。

治療が上手く行かないいいわけをこんな言い回しで行うと、だからこそ トラブルになって、医師-患者のいらない対立を生んでしまう。

こんなときは、単純に点滴ができないこと、教科書的な治療を行っても反応が乏しいこと だけをまず伝える。自分の理解とは異なった事実を伝えられた患者さんは、 そこで初めて疑問を持つ。患者さんが疑問を持って、医師の見解、あるいは内面的な思考 というものは、そこで初めて患者さんにとっての存在意義を獲得する。

内面的な思考というものは、 患者さんが疑問を持って、自ら問うまで答えないほうが、だからトラブルになりにくい。

もちろん「全ては目の前の医者が悪いんだ」なんて理屈で 認知的な不協和を解決されちゃうと、今度は自分達の首が危ない。そのへん ニュアンスで。

結論めいたもの

なんとなく、医師が頭を使う方向で進歩するのは、やっぱり間違っているような気がする。

抗生物質の使いかたとか、あるいは腹痛の診断であったりとか。

いろんな理論が発表されて、正しいやりかた、正しい診断、いろんな「正しさ」が 医師の頭に突っ込まれて、バックグラウンドでの作業は増える一方。

いろんな意見を飲み込んで、医師はますます「正しく」なるんだけれど、 その正しさは残念ながら患者さんには全く伝わらなくて、目の前の医者は経験積んで、 患者側からはますます鈍重に、無能な存在に見えてきたりして。

たとえば発熱で来た患者さんに、挨拶代わりに広域抗生物質落とせば、 問診以下の検査は全て省略できるし、腹痛で来た患者さんに問答無用でCT撮れば、 たいていの場合はそれで終わる。もちろんこんなやりかたの問題点なんて 挙げればきりがないけれど、それを解決するのもまた、技術的な進歩。

「病院の門くぐったら、その場で診断が出て、治療が始まる」

そんなSFめいたやりかた、医療が進歩して、機械が進歩して、 医師の存在が無意味化していくような、そんなやりかたこそが、 本来医療が目指すべき目標なんだと思う。