ネット時代の煽動技法

ジャーナリストの 有田 芳生 氏が、北村弁護士の演説を、コラムで批判的に紹介していた。

「声が裏返り、口汚く語っている。どこの議員だろうかと冷ややかに見ていたらキタムラとかいうタレント弁護士だった」

有田 氏の言論は、一見見たままの事実を語ったようでいて、「口汚く」であったり、 「キタムラとかいうタレント弁護士」であったり、事実と事実とをつなぐ言葉に 自らの意思を忍び込ませる、伝統的な言論技法。

冷ややかに見たのは誰なのか。キタムラをしょせんタレントだと見下したのは誰なのか。 もちろんそれは文章を書いた有田氏自身なんだけれど、文章が上手な人は、 それを「読者一般」の視点から見たように描く。

「ジャーナリストである有田氏個人はこう思った」という立ち位置は、文章からは隠蔽される。 昔はこんな書きかたこそが平等な視点を演出して、執筆者に対する信頼を生んだけれど、 今の読者目線は変化して、たぶんプロパガンダの伝統的なやりかたは、 昔ほどの力を持てないように思う。

伝統芸能としての扇動手法

大衆の無知を信じること。良いことをを声高に喧伝して、悪いことは最初から 無かったように振舞うこと。論理より感情に訴えること。思想を単純化し、断定し、反復すること。 レッテルを張り、複雑な問題を一つのラベルに単純化して、世の中を敵と味方とに2 分すること。

レーニン発祥、ナチスドイツが発展させた扇動手法はもちろん今でも現役で、 マスコミはもちろん、ほとんどの政治家は、当たり前のようにこんなやりかた。

大衆の無知を信じる。これを信じきれないで対話に走った民主党岡田代表は、 「自民党を信じるか、郵便局の利権を増長させるか」の小泉首相のやりかたに敗北した。 最近は、与党、野党を問わず、美しいスローガンの応酬。

みんないいかげん飽きていて、伝統芸能も大分空虚に見えてきた。

マイクグラベル翁のやりかた

アメリカ民主党マイク・グラベルという大統領候補がいて、この人の演説がめっぽう面白い。

アラスカから来た76歳、単なる泡沫候補だとみなされていたこの候補者は、 民主党の他の候補との討論会の中で、正直で、率直で、過激な意見を連発して、 ネットを通じて一気に有名になった。

北村弁護士の演説も、マイク・グラベル翁のやりかたもそうなんだけれど、 やっていることはあくまでも伝統の踏襲。

きれいごとを並べて、自分の立場に悪いことはあまり語らないで、 正しいけれど極端なやりかたをぶち上げる、 都知事選に立候補した外山恒一氏なんかが戯画化して演じてみせたような、 そんなやりかた。

基本はみんな一緒。それなのに、北村弁護士の扇動は面白かったし、 そうでない人の扇動は、退屈どころか不快ですらある。

実際問題、現実がそんなに上手くいくわけがないし、演者がどんなに頭がよくても、 世の中全てが見えるわけが無くて。北村弁護士の演説にしても、 マイク・グラベル翁の演説にしても、あるいはそこから説得力を感じた人は そんなに多くなかったのかもしれないけれど、そこから「熱さ」を感じた人は、 きっとたくさんいたはず。

優れた煽動者にあって、凡百の、技術だけ真似た政治家には無い「熱さ」、 これが何から来ているのか、目端の効く政治家の人達は、きっと彼らの言葉、 彼らが使った技術を検証し始めているのだろうし、 たとえばあの場所に立ったのが北村弁護士でなくて、ジャニーズのタレントだったなら、 あるいはそこに同じ熱狂が生じたのかどうか、技術の属人性に関する検討 なんかも、きっとどこかでやられているのだと思う。

伝わりやすさと分かりやすさ

説得だとか交渉だとか、コミュニケーターを志向する人達は、 みんな少なからず「煽動」に対する憧れを抱いている。

政治がやりたいとか、利権に乗っかりたいとかそんなじゃなくて、 自分達が追求して来た技術の先には1 対多のコミュニケーション、「煽動」があって、 それこそが自分の技術を表現する場に見えるから。

煽動というのは、説得力の足りないところ、あるいは自陣営の論理の欠陥を、勢いで押し流すやりかた。

昔の煽動者は、たぶん世論の7 割、「大衆」なんて呼ばれた人達を 押さえられれば、勝利が約束されていた。残りの3割の声なんて小さなものだし、 そこに何か光る意見があったとしても、大衆の同調圧力は、それを潰してくれた。

今の煽動者は、世論の9 割を取っても安心できない。

残り1割の中には、たいていの場合、煽動者以上に頭がいい専門家が混じっていて、 専門知識に「後だしじゃんけん」の地の利を混ぜて反論してくるから、 議論になったら確実に負け。今は誰もが発信する時代。9 割取れてても、 分かりやすい、説得力のある意見を出されれば、それからひっくり返る目だって十分にあって。

北村弁護士とマイク・グラベル候補。2人の優れた煽動者が、歴代と異なっているのは以下の部分。

  • 負けるのが前提の議論を展開していること
  • 自らの立ち位置を明らかにすること
  • 自らの履歴を矛盾なく説明できること
  • 伝わりやすい議論でなく、分かりやすい議論を行ったこと

従来、煽動というのは勝利を確実にするために仕掛けるやりかた。彼らはむしろ「敗者」の側、 従来ならば論理で持って煽動に対抗する側の人間だったのに、逆に煽動の手法で持って、 勝者が掲げる論理の薄っぺらさを晒そうとする。

自らの立ち位置を明らかにして、言論の責任を自分自身に持ってくるやりかた。ある意味彼らは 確定した敗者だから、「我々は…」とか、「市民は…」をやると、被害が回りに及ぶ。 責任は自分が引き受ける。それをやられると、対抗する側は、もちろん「自らの責任」で発言しないと、 その言葉には説得力がなくなってしまう。そしてたぶん、「優勢」側には、自分でハンコを押したくない人が たくさんいるから、こんな勝負を仕掛けられると馬脚を現す。

恐らくは、「伝わりやすさ」ではなく「分かりやすさ」を選んだことというのが、「熱さ」を生み出した最大の要因。

伝わりやすい話というのは、単純で、きれいで、イメージを優先したやりかた。 もちろん問題点は隠蔽されるし、相手は一方的に悪くなる。自陣営の戦略が実現すれば 未来は薔薇色だし、「伝わった」人は、無条件で演者に従うことが要請される。

分かりやすい話というのは、聴衆に思考を強制するやりかた。 戦略にはもちろん目的があって、それを提示する理由や、それを提示しなくてはいけない現状認識があって。 もちろん予算も必要だし、それが行われたときに聴衆が甘受しなくてはいけない不利益だって指摘しなくちゃいけない。 自らがこうむる不利益が可視化されるからこそ、聴衆は「大衆」を止めることを余儀なくされて、 自分の耳で、煽動者と、それから相手陣営の話を聞いて、判断することを強制される。

優勢側が予定通りの勝利をおさめるならば、待っているのはお上品な密室談義。

本来議論なんてそんな上品に行くわけなくて、利害の対立した者同士、 議論を全て可視化したなら、そこにあるのは殴り合いの喧嘩。

ネット時代の煽動者は、「極端で下品な正論」で持って、 お上品な密室談義を、下品で分かりやすい「喧嘩」へと、議論の可視化をはかろうとする。

無知で騙されやすく、流されやすくて忘れやすい、そんな「大衆」を作る原動力が、 自由への恐怖。 自分で考えて判断するのは本来怖いことだから、みんなまわりの意見を聞いて、人の集まりは 大衆へと姿を変える。

たぶんこれからの煽動者は、煽動の先に大衆の解体を夢見る。人を煽動して、 自由への恐怖よりももっと恐ろしい何か、衆愚への恐怖を可視化して、 人を思考に引きずり込もうとする。

煽動の技術というものが、あるいはこんなふうに使えるのなら、 「熱く語る人々」という存在は、これからもっと歓迎されてもいいように思う。

追記:福田総理が就任記者会見の中で、「政治不信の払拭をまず考え、政策を練る」ということを 言っておられた。

マイク・グラベル候補なら、きっとこんな発言するんだろうな、と思った。

「所信表明じゃなくて、法律を制定すべきだよ。 クリーンじゃなきゃ重罪になるという法律を作るんだ。その条文は私が用意する。 野党の妨害が心配なら、戦術をさずけよう。 衆議院は通過できるだろうな。すでに多数派だから。 参議院では、牛歩をやらせればいいさ。それで、参議院議長は毎日12時に 討論終結動議を出すんだ。 そして国民に、誰が議論を長引かせているのかハッキリと見せてやれ!