北村弁護士の演説のこと

北村弁護士の応援演説が 熱くて面白い。

結局麻生総理は実現しなかったけれど、 「おっさんが熱く語るのは、本当はかっこいい」ことを示し得たこと、 「個人の言葉はまだまだ力を持っている」ことを示したことは、大きな成果だったと思う。

言論の担保を自分に持ってくるやりかた

こんにちはー! 私は自民党員でもなければ政治家でもありません。 だから、この自民党がどうなろうが私は関係ない(聴衆笑い)。

私から見て、この民主党の政策というのは私から見ればですよ、 素人の私から見れば、この自民党政権がかつておかした過ちをそのままやろうとしている。

マスメディアとか、あるいは論文なんかは、「一般にこう言われている」という書きかた。

言論の担保を「一般」とか「伝統的に…」とか、実体のない何かに託しているから、 喧嘩にはならないけれど、あと一歩踏み込めない。

言葉の責任は、本来それを語った人自身にある。でもそれを認めるのは 非常に怖いことだし、あとから間違いが見つかったとき、その責任を償わないといけない。

自分の立ち位置を明らかにして、その視点から見えるものを語るやりかたというのは、 だからこそ勇気がいるし、その勇気が説得力を生む。

「品の悪い私」という立ち位置

麻生太郎本人は、非常に品のいい男だ。だから品の悪い私が言ってるんだよ。わかるかね!!

「よさ」で引っ張るやりかたは、「私は最高だ。それに気がついて私を支持するあなたたちも最高だ」 という論理。正義を背負う、最近のマスメディアの立ち位置がこんなやりかた。

「よい」とか「賢い」、「知識がある」というパラメーターは、本当は解答すべき問題を 定義されないと、比較可能な数字として機能できない。

「この高度計を使って、大学にあるタワーの高さを計算しなさい」 こんな問題を出された大学生は、高度計と長い紐を持ってタワーに上り、 高度計を紐につるしてタワーから下ろし、紐の長さを測定した。 教授はそれを「間違えだ」として、大学生にもう一度タワーの高さを 測るように命じた。 大学生は、今度は高度計の高さを使って三角測量を行い、タワーの高さを計算した。 この学生は、結局高度計を使ってタワーの高さを測定する方法を6つ考案したけれど、 高度計の機能そのものを使った計算方法は提案しなかったので、教授はついに、 彼を合格にしなかった。

この大学生の知識量というのは、タワーに上がって高度計の目盛りを読んだ学生よりも 明らかに多いのに、教授の示した問題という視点から見ると、 この学生の持つ知識は不十分なものと判断された。

「知識があるかないか」という評価は、こんなふうに問題を定義されないと 決定できなくて、観測する人の立ち位置はみんな異なるから、知識の量というのは本来、 相対的にしか決定できない。

「私はあなたよりも勉強していて知識が豊富です。私の言葉を信じなさい」なんてやりかた、 マスコミの人達とか、市民団体の人達とか、全方向的に善であり、正義であることを前提に 議論を展開する、こんな人達に共通の胡散臭さというのは、 たぶん知識量、勉強量というパラメーターを、問題定義を無視した 絶対的な量として主張するところから生まれているのだと思う。

水が流れるためには重力が必要なように、言葉を流すには、演者にあって聴衆にない「何か」の 存在が欠かせない。従来それは「よさ」であったり「賢さ」であったのだけれど、 北村弁護士が使ったのは「下品さ」というパラメーター。

「よさ」が胡散臭いからといって、ならば「私は馬鹿です。支持して下さい」なんてやったところで、 言葉は伝わらない。これをやると、「ならばどうして馬鹿である演者に物事がよく見えて、もっと賢いはずの 聴衆にはそれが見えなかったのか?」という自己矛盾に陥ってしまう。

下品であるという立場は、「私は下品だからこそ、上品さを持った人が目をそむけていることを指摘できるんだ」 という力を持っていて、もしかすると聴衆と演者との目線の高さを上手に揃えて、 優越感ゲームを回避するのにとても上手いやりかたに思える。

頭がいい人というのは、プライドが高い。北村弁護士もまた、演説中に「プライドの高い人」という言葉を 批判的に使用している。裏を返すと、本当は頭のいい人がプライドを捨てたとき、 「留保のない善」を立ち位置にした言論は、もはや抗う術がなくなってしまう。

だまされていたけど真実に目覚めた私

一般の人ももしかしてわかってないんじゃないかと思ったの。だからここに来たんですよ。 でも先ほどネットの情報を聞いてみると、実は国民はわかってるらしい。

「あなた達は、本当は分かっている」。これは言論に「上から目線」の臭いがつくのを回避するための 伝統的なやりかただけれど、普通は「私はそれを見抜いている」と続く。 北村弁護士は「みんな分かっているけれど、マスコミがそれを報道しないから分かっていないことにされている」 と続ける。

共通の敵を作るやりかたは、演説をする人と、聴衆との一体感を高める効果的な方法だけれど、 「敵が敵として機能しないと、言論そのものが崩壊する」という弱点を併せ持つ。

北村弁護士は、マスコミが、絶対悪として振舞うのに欠かせない「不自由さ」を持っている ことを見切って、あえて共通の敵を作りにいったのだと思う。

悪役としてのマスコミの不自由さ

扇動を効率よく行うためには「闘争のための敵」が必要になる。

北村弁護士の論理というのは、マスコミが絶対悪としてその立ち位置を崩さないことが 前提になっていて、たとえばどこかのメディアが麻生支持を打ち出した報道を行っていたり、 福田総理擁立に対して批判的な言論を展開していたりしたら、最初から成り立たない。

少し前まで、マスコミというのは善でもあり、悪でもあり、とにかく面白ければ 何でも飲み込んで放映してしまう、もっと混沌としたものであったはず。

今回の北村弁護士演説は、支持するしないを問わず、少なくとも「面白い」。

マスメディアに余裕があった頃なら、あれだけ面白い「絵」が撮れる機会があれば、 絶対に放置しなかったはず。

その日の夜には特番組まれて、福田派の代議士と北村弁護士、ビート武とかテリー伊藤とか、 火に油を注ぐ芸風の人達を司会に混ぜて、荒れに荒れた討論の末に 「テレビ局なんて潰れちまえ」なんて結論で、全員一致して幕下ろしたり、 そんな流れでも「面白いんだから」で正当化されてしまったはず。

マスコミを共通の敵として認識するやりかたは、ほんの少し前のテレビメディア、 河原乞食を自認して、新聞みたいな高級なペーパーメディアに対抗して、 下らなさとか、娯楽の王様としての存在感なんかに命賭けてた頃のマスコミには 無意味であったと思う。

メディア自体が変わったのか、それともメディアを取り巻く視聴者が変わったのかは 分からないけれど、テレビはいつのまにか「下品さ」を受容できなくなって、 みんなの「共通の敵」としての存在感と、不自由さとを併せ持つようになってしまった。

仮面ライダーみたいな勧善懲悪もののドラマの悪役、悪の組織の帝王みたいな立場の人は、 自らの利益を最優先するにもかかわらず、どんな時にも「悪である」という立ち位置から逃れられない、 ものすごい不自由さを背負わされている。

「悪の定義」というのは本来、立場からの自由。悪の組織は、たとえば仮面ライダーが破壊した 自然環境を宣伝するとか、「胡散臭い正義の下に一方的に叩かれるかわいそうな我々」を訴えたりとか、 自らの利益を最優先して、自らの立場をコロコロ変える。

一方で誰かを叩きながら、別の番組では味方をしたり、世間がそれを指摘したなら、 今度はそのエネルギーをも視聴率稼ぎに利用してみたり。こんな節操のなさこそが、 昔のテレビだったように思うのだけれど、今のマスメディアは、 もしかしたら自らの「良さ」を自己言及的に強調していったあまり、 こうした立場からの自由を失ってしまったのかもしれない。

混沌が秩序を滅ぼす

手段が目的に転化するときは、一つの組織が滅びる兆候でもある。

正義の立ち位置は本来、マスメディアが視聴者を釣るための単なる方便であったはずで、 メディア本来の目的というのは、あくまでも「マス」、多くの人を引っ張り込むことであったはず。

ネットでこれだけ盛り上がった北村演説が、もしも本当に報道されなくて、 このままネットメディアだけでその面白さを共有するものになるのなら、 マスメディアはあるいは、目的を捨てて、手段に舵を切る覚悟を決めたのかもしれない。

自分の親を殺してでも笑いをとれ。

萩本欣一的な、テリー伊藤的な、土屋敏男的な、「元気が出るテレビ」的な、 自分がある面ですごく信用してきた、あらゆるものを「面白い」のひと言で飲み込んで放映する、 面白さのためなら自分の頭を撃つことだって厭わないような、少し前のマスメディアが持っていた混沌。

マスメディアが正義に秩序化されて死ぬのが規定路線なら、 オールドメディアが築いた秩序を壊してきたことこそが、 メディアが進化してきた道筋であるのなら。

北村演説を見て、なんだかすごく面白い瞬間に立ちあっている気分になった。