ギルドとしての医師会に足りないもの

おそらくは「業界」というものは、 「勝つ戦略と負けない戦略」、「ピーク性能と信頼性」という、 両立不可能な2つの対立軸でマトリックス平面上に展開できて、 業界同士の平面上での隔たりは、そのまんま業界ごとの仲の悪さとか、 話の通じにくさを説明するものになる。

勝利-敗北の損得バランス

勝敗を判断するための「ゼロ点」というのは、たぶん業界ごとに異なっていて、 それがあまりにもかけ離れた業界どうしは、たぶんコミュニケーションが成立しない。

医療者というのは「勝利」に対する欲求が極めて低くて、「敗北」に対する恐怖がすごく高い。 基本は「負けない」戦略を重ねて何とか勝利を拾う。そのあたり、 「特オチ」を一番の恥として恐れるマスコミとは正反対。

たとえば法律家なんかは、弁護とか、判決といった行為を 一種の自己表現だと考えている節があって、勝ちにいくことが多くて、負けることを恐れない。 医師-弁護士が集う掲示板なんかでも、法律サイドから 「法律家だって間違いを犯す。だからこその3審制」なんて言葉が出たりして。

それは「負けない」に重きを置く外野から見ると、非常に違和感があって、実際問題 掲示板でも議論が紛糾してた。

裁判所というのは、利害が対立する2つの勢力が、おのおの最適戦略をぶつけ合う場所だから、 その論理はどうしても投機性を帯びるし、彼らもまた、リスクをとることをためらわない。

そこに行くと医師なんかは、基本的には「一発逆転」は 絶対に狙えない商売だし、リスクをふんずけて失敗することを 何よりも恐れる。

医療の技術とか、理論なんかはどこまでいってもあやふやさが残って、 論文上は「効く」はずの薬が効かないなんていつものこと。 ユーザーが妖しい漢方飲みたいと言っても止められないし、 せいぜい不可知論ぶつか、「自己責任で」なんて捨て台詞吐くのがせいぜい。

医師と法律家、あるいはマスコミは、勝利戦略の選択軸では 全く逆の立場をとっていて、だからこそ こんなにも対立が深まって、両者が仲良くなる日なんて、 きっと一生来ないんだと思う。

自動車業界なんかは高信頼性産業で、 ユーザーにそっぽ向かれたら会社が傾く。機械と人間、隔たりが大きな ようでいて、お互いの業界がおかれた距離感というのは、案外近い。

アメリカとアルカイダよりも仲が悪そうな医師と教師、本来はお互いの立ち位置は 案外近くて、地球割れるぐらいの奇跡でも起きれば、案外仲良くなれるのかもしれない。

ベンチャー企業を率いる人たちのスタンスというのはよくわからない。 あの業界の人達が書く文章というのはとても面白いものが多いし、 医師が読んでも違和感なくて、なんとなく親近感持ったりして。

あの業界ももしかしたら、案外敗北に対して恐怖を持つ人が多くて、 冒険をすることにためらいを持つのが普通だったり、文章発信できるぐらいになった人というのは、 すでに冒険をしてもいい頃を通り過ぎてきた人達だからなのかもしれない。

ピーク性能と信頼性

信頼性はすごく大切。それに異を唱える人はいないと思うんだけれど、 「ピーク性能を削って、仕方なく信頼性を出す」という立場の人と、 「技術を高めていった先の目標に信頼性を置く」という立場の人とがいて、 この両者もまた、折り合いが全くつかない。

ピーク性能というのは、お金で購入できる要素が多い。

たとえば「大人の助っ人2 人までOK」なんてルールのリトルリーグでどうしても勝ちたかったとして、 大リーグの松井とイチローを引っ張ってくれば、たぶんその試合は、 もう圧倒的な勝利をおさめる可能性が高くなる。

ところがそれだけのお金を突っ込んでも、信頼性は上がらないかもしれない。

イチローと松井を投入できるのが1試合しかなかったとして、 華々しい大勝利を1試合だけおさめられたとしても、 残りの試合がグダグダになってしまえば、年間を通じた勝利確率は上がらない。勝利して、なおかつ 確立を高めようと思ったならば、2人に大リーグを引退して、少年野球のチームに常駐してもらわないと、 信頼性は高まらない。

天下にとどろくものすごい名医を一人連れて来たところで、都市の平均死亡率なんて変わらない。

10万都市で、たとえば小児救急外来で亡くなる子供の数を2割減らそうなんて思ったら、 たぶんもう1つ総合病院を建てないといけない。たぶんそのお金は松井とイチローの 生涯年収を上回るだろうし、そこまでお金をかけても、その結果は 統計のわずかな差、助かる子供が2人ぐらい増えた形でしか効いてこなくて、 その結果すら、交通事故死亡者数で相殺されてしまったり。 すごい資本を投じたわりに、市民の満足度は上がらない。

医師に問題解決を求めると、2 言目には金金言ってるように聞こえるのはたぶんこのへん が原因。医師にとっては、「結果を出す」というのがどうしても信頼性を金で買う話になるから、 わずかな向上幅を求めただけで、ものすごい見積もりが返される。

同じ業界の中であっても、信頼性に対する立ち位置というのは、人によって大きく異なることがある。

同じ自動車エンジンを作る技術者であっても、レースエンジンを作る人と、 乗用車のエンジンを作る人とでは、恐らく考えかたは正反対。 レースエンジンは、ゴールした瞬間に壊れるのが理想だし、壊れなかったら 「もっと信頼性を削る余地がある」なんて考える。乗用車エンジンは、 もちろん信頼性大切で、たぶん性能削ってでも、削った分を信頼性に回す。

このあたりのスタンスは、同じ医師の中でも大いに異なる。

医師会の偉い人たちというのは、西洋医学を引っ張ってきた世代。 どちらかというと、信頼性よりもピーク性能を愛する人たちだから、 この人たちが旗振ると、信頼性重視の教育受けた世代からは 無茶な精神論ぶってるようにしか見えないし、そんな施設からは、 やっぱり人がいなくなる。

市民感情的な、国全体の漠然とした意志は、たぶん高信頼性を求めていて、 その目標というのは、医師を科学者の延長と考える人達、 ピーク性能を愛好する人達から見ると地味すぎて、魅力あるものには映らない。

医師が「信頼性」という言葉を口にする時も、たぶん同じ業界で2種類の考え方があって、 このへん言葉の統一ができていない業界は、だからこそ今ひとつまとまらなくて、 ギルドとしての力を発揮できない。

ギルドとしての医師会の役割

もしかしたら「対話の果ての融和」というイメージ自体が、 マスコミ様やら法曹様やらが作り出して、我々を躍らせてる幻惑なんじゃないかと思ったり。

法律というものは本来、「国全体を包む雰囲気」、国民感情みたいなスーパーセットの 一部にしかすぎない。それは家でたとえると「門」を記述する言語ではありえても、 屋根とか壁とか、家を構成するのに欠かせない、他のサブセットを記述する役には立たない。

たとえば道から家を見て、「門がない家」というのは道路の延長であって、 独立した家とは見なされない。「家」を作るためには、だからこそ門を記述する 法律は欠かせないけれど、門だけで家は建たない。

壁には壁、屋根には屋根を記述するための言葉や決まりごとというのが必要で、 それがおそらくは様々な業界が作るギルドや、業界内のルールみたいなもの。

家全体を記述するための漠然とした言葉、国民感情というものは、 全体を記述するゆえに本来的に不完全だから、 サブセット全ての振る舞いに対して不満を持つし、 家を構成するお互いのサブセット同士は、本来お互いを裁くことなんでできはしない。

法律が犯罪者を裁くのは、あくまでも対外的なポーズとして、 「この家には門があります」と宣言するために行うもの。

それは不完全なものにしかならないし、その裁きもまた、裁かれたサブセットからも、 国民感情からも不満を持たれるものにしかならないけれど、おそらくは国を作る各サブセットは、 そもそも法律のことなんて、そんなに気にしなくてもいいのかもしれない。

法という一つの体系で支配された世の中では、ダブルスタンダードは叩かれるけれど、 社会に「二枚舌」を実装してしまえば、それはありなんじゃないかとも思う。

たとえば医師のギルドができたとして、何か医師にトラブルが発生したとして。 法律がある以上、法的に、あるいは市民感情的に間違いを犯した医師は、 法で裁かれ有罪に。法律上は有罪であっても、その人がギルド内での内規に 反していないなら、ギルドの中ではその人の名誉が損なわれることはないような。

問題なのはきっと、サブセット内の言葉の対立。それは勝利-敗北の利得配分であったり、 信頼とか、義理と利益と、どちらに重きを置くかであったり。

今の医療業界は、みんな立ち位置がみんなばらばらだから1つになれないし、 「法を無力化するギルド」の結成なんて、先のまた先。

そのあたりの対立がない社会、それは法律家の業界とヤクザ社会、あとは マスコミ業界がそうだけれど、それぞれのサブセットは国民感情から自由だし、 法律からも実質自由を勝ち得ている。

医師会も「家を記述するサブセット」として固まろうと思ったならば、 恐らくはこんな言葉の統一は避けて通れないし、それができないならば、 学者肌の医師と実務肌の医師、医師の団体もまた、 それぞれの立ち位置で2つに分裂すべきだと思う。

同じ立ち位置を共有する技術者のギルドが実現できるなら、 そもそも訴訟恐怖の問題とか、マスコミバッシングの問題とか、 実質解決できると思うんだけれど…。