「釣り」の返しかた

いない「誰か」を見せるやりかた

たとえば外界から隔絶した部屋の中で2人、カウンセラーと被験者とが6時間ぐらい。

被験者から話を聞いたカウンセラーは、常に隣の「誰か」と相談してから返答を返す。

被験者は、見えない「誰か」をいぶかしみながら、治療者たるカウンセラーに変な突っ込みも できなくて、5 時間目までそんなやりとり。

被験者と治療者。密室の中で、そんな歪んだ関係を5 時間も続けた頃には、 被験者の現実認識はカウンセラーに依存するようになっている。 カウンセラーが「力の勾配」を意図的に利用したならば、 被験者にはその意図に対して防衛するすべがない。

話も煮詰まった5 時間目。「……ですよね~」なんて、見えない 誰かと何百回目かの「相談」を行ったあと、被験者の目の前で、 カウンセラーが「見えない誰か」の肩を抱く

上手にやれば、被験者にはきっと「見える」はず。

「今、見えたよね?」

カウンセラーが自らの意図を告白したとき、 世界の認識は再び被験者の手にゆだねられ、 被験者とカウンセラーとの関係は終了して、「見えない誰か」は舞台から消える。

それはカウンセラーみたいな資格であったり、「古参」みたいな権威であったり、 社会的な地位であったり。 どんなものであれ、力の勾配を利用できる立場の人が「釣り」を仕掛けたとき、 それは極めて高い確率で成功するはず。

力の差がなくなる瞬間

被験者の立場というのは、カウンセラーの「釣り」に対して基本的に無力だけれど、 立場の強いカウンセラーが「釣り」を仕掛けたまさにこの瞬間だけは、 被験者とカウンセラーとの立場は対等になって、 カウンセラーを「釣り返す」可能性が見えてくる。

カウンセラーの意図というのは、「この部屋には自分と被験者以外にもう一人いる」 という物語を被験者に信じさせること。カウンセラーが「見えたよね」と勝利宣言を 発した瞬間は、部屋の中にはたしかに3人の人がいて、みんながその物語を共有している。

ここから先は、「物語を駆動する力」の勝負。被験者が地団駄踏んでくやしがれば、 物語はそこで消失して、カウンセラーの勝利が確定する。消滅するはずの物語を 被験者が捕まえて、カウンセラーをその物語に引きずり込めれば、 あとは物語に対する想像力の勝負。

返しかた

たとえばカウンセラーが「見えたよね」なんて勝利宣言を発したその瞬間、 被験者は想像力を駆使して、その「見えない誰か」の体格や性別、 その後の行動なんかをなるべくリアルに思い描いて、物語を再起動する。

「見えない誰か」というのは、被験者に対して殺意を抱いた男で、カウンセラーの勝利宣言直後、 被験者の首を締めようとして、机を飛び越え、被験者に襲いかかる。被験者は悲鳴を上げながら 机の下に隠れ、そこで「見えない誰か」と喧嘩が始まる。

5 時間もかけて作ってきた「見えない誰か」。それをリアルに実体化すればするほど、 カウンセラーも「見えない誰か」の物語に近づいていき、巻き込まれやすくなる。

「見えない誰か」と争う被験者を見て、慌てたカウンセラーが 「喧嘩の仲裁」に入ろうとしたならば、カウンセラーもその時、「見えない誰か」が 見えてしまったはず。

誰かと会話をしたり。誰かの意見にコメントをしたり。あるいは、「壮大な釣り」を計画したり。

どんなものであっても、関係というのは相手を巻き込んだ一つの物語を作って、 お互いにそれに対して近づいていく行為。そこには安全地帯なんか存在しなくて、 操作しようと近づけば、それを返されるリスクだって、近づいただけ増えていく。 立場が弱い側からは、それが見えにくいだけ。

どんなに立場の強い人でも、どんなに防御が硬い相手であっても、 「釣り」が成立したその瞬間だけは無防備。 釣られた側が、ここから物語を暴走させれば、 お互いの関係が一変して、きっとすごいことになる。

ネット世界では「釣りでした」で話が終わって、「その先」を仕掛ける人、あんまり多くない。

「ネタにマジレス」の下克上世界というのは、それはそれでとても面白そうなんだけれど…。