社会の失明とネットワークによる信頼の担保

最初の頃に信頼を担保していたのは「もの」それ自体。

社会が大きくなって、「良いものを見る目」を多くの人が失って、 信頼を担保するのは「人」の役割に。

社会がもっと大きくなって、「良い人を見分ける目」を持った人が少なくなったこの頃。 次に信頼を担保するのは、たぶん「もの」が作り出すネットワークなんだと思う。

ヤギを潰す日

研修医の頃まわった南の島では、最近まで「ヤギを潰す日」と「豚を潰す日」が 村ごとに決まっていたのだそうだ。

潰されて、肉にされるのは村の動物。さっきまで元気に歩いていた生き物。 鮮度保証つき。村で飼った動物を、村の人が食べる。

小さな社会では、「もの」の信頼性は、「もの」それ自体が保証してくれる。 美辞麗句で飾った広告なんて必要ないし、JAS マークみたいな制度の出番も、もう少し先。

料理という帯域制限

動物を潰して「肉」にして、流通を経由して調理を受けて、食卓へ。

動物が食卓に上がる工程で、動物からは情報が失われていく。

自分はもう、スーパーで売っている肉や魚の良し悪しは分からない。 昔母親から習った記憶はあるけれど、身につかなかった。

「肉」になる前、生きている動物ならば、少なくとも「元気だ」ということだけは分かるし、 解剖実習の経験はあるから、解体させてもらえるならば、病気の有無ぐらいなら分かるかもしれない。 解体されて、パッケージされた状態になってしまうと、もう無理。

分からないものの信頼性は、誰か専門家に担保してもらう。小売を専門にする業者が 販売するのは、「もの」ではなくて、情報の補間と信頼の担保というサービス。

人と人との距離が近い小さなコミュニティの時代なら、肉屋さんの主人は、 それなりに必死になったはず。不良品を売った肉屋さんは信頼を失い、 小さな町では生きていけない。信頼を維持する動機があって、みんなはその動機にお金を払う。

コミュニティがだんだんと大きくなって、今うちの近くにあるのは、大きなスーパーマーケットだけ。 スーパーマーケットで信頼を担保しているのは、その店の食肉担当者。今の地域に1 年住んで、 その人の顔なんて見たことがない。

顔が見えないコミュニティでは、自らの行動を通じてでしか信頼を担保できない。 高そうだから良い肉なんだろうとか。国産と書いてあるから大丈夫とか。情けない話。

土用の丑の日。スーパーでは鹿児島産の鰻が山盛り。どれも肉が厚くて皮もブ厚くて、 どこから見ても、隣の中国産と区別がつかなくて。自分みたいな素人にとっては、 中国産と国産とを分けているのは、ラベルの印字だけ。

市場はどんどん大きくなっていくけれど、良いものを見分ける「目」を持った 人の数は、たぶんそんなに増えていないか、むしろ減っている。「目」が薄まってしまうから、 市場の「視力」はどんどん落ちて、盲目的な信頼だけが横行する昨今。

大手サイト管理人の言葉はなぜ「重い」のか

人間を検証することなんて不可能で、顔と顔とが離れていけば、 モラルを維持することも困難で。

「人」が信頼を担保する社会には上限があって、 大きくなりすぎたコミュニティでは、結局モラルが崩壊してしまう。

人はウソをつく。広告も、マスメディアもみんなウソをつく。 何が正しいのか分からないのに、某巨大掲示板の意見とか、 大手サイトの管理人の意見というのは、なぜだか信用してしまう。

顔が見えないネットワークが持つ不思議な信頼感というのは、たぶん 「大きなコミュニティを維持しながら発現を続けていくと、 ウソをつくコストが、ウソから得られる利益を上回ってしまう」ということを みんなが理解しているからなんだと思う。

大手サイトには多くの読者がいて、その中には特定分野の専門家とか、 管理人より圧倒的に知力が優れた人達とかがいっぱい。 管理人は全方向的に突っ込まれる言葉に応酬しながら、 それでも沈黙すれば読者を失ってしまう。

立場が異なる様々なツッコミに対応しながらウソをつきとおすのには、 ものすごいエネルギーが要る。すべての読者を欺きとおすなんて不可能だし、 よっぽど面白いことを書き続けられないならば、ウソが崩されれば読者は去る。 ネット世界ではすべての「ウソ」は記録されるから、一度崩れた信頼は取り戻せない。

そういう意味では、創刊してから120年、ウソしかついていない 朝日新聞の人達というのは、本当のプロフェッショナルの集まり。

大きなコミュニティを長いこと維持している人というのは、 だからこそ「少なくともその人から見える範囲では、ウソをつかない」というスタンスに収束して、 各々の立場から「本当のこと」を発信し続ける。

情報の量が信頼性を担保する

一番すばらしいのは「確実に効く薬」で、次にすばらしいのは「確実に効かない薬」。 一番ダメなのは、効くのか効かないのかはっきりしない薬。

「人」の時代から「情報」の時代へ。「効く」とか「効かない」という情報がたくさんある薬というのは、 効くなりに、効かないなりにいろいろ使いでがあるけれど、よく分からない薬というのは、 これはもうどうしようもない。

「よさ」の時代から「量」の時代へ。価値が多様化して、 「人」が信頼を担保できなくなった時代で大切なのは、「もの」が持つ情報そのもの。

それは産地であったり、JASマークみたいな法律で決められた情報なんかではなくて、 むしろ巨大掲示板での言及数とか、ネットワークでの話題を通じて、 「もの」が生み出した情報の総量みたいなもの。

「情報」というのは、定量化するのが難しい。

たとえばある製品に「この商品はすばらしい」なんてコメントが1000 以上もついたところで、 それを信じるネットワーカーはほとんどいない。「どうせやらせだろ」とか、 「これだから朝日は…」なんて反応を引っ張るのがせいぜい。

賛成とか、反対とか、たぶんこれからは「向き」の持つ意味はどんどん弱くなるはず。 くり返しの多い、同じような情報というのは、圧縮すると極めて小さくなってしまうけれど、 多様性に富んだ意見というのは圧縮が難しくて、多数の賛成意見よりもサイズが大きい。

たぶん「圧縮処理を行った後の情報量」というのが信頼性を担保する社会というのが これからやってきて、そんな漠然とした情報をどうやって可視化するのか、 たぶんいろんな人がそれを考えているはず。

情報可視化手段としての生命

スーパーに並ぶ肉の「生データ」にあたるのは、生きている牛や豚。

生き物が加工され、スーパーに並ぶまでには相当な量の情報が捨てられている。 裏を返せば、生きている牛や豚が持つ情報量というのは莫大なのに、 情報の質を評価するのは案外簡単だったりする。

「生きている」とか、「元気だ」といったやりかた。

牛が草を食べているところとか、牧場で歩いているところ、糞をするところなんかを ながめていれば、その牛が元気なのかどうか、3 日もあれば子供にだって分かる。

生物は、莫大な情報を視覚化する上で、「生きている」という 極めて分かりやすい手段を提供している。

人が亡くなる様子を眺める機会がものすごく多い。

生きているというのは「動いている」ことなんだなと思う。 で、「動く」というのは、たぶんあらゆる刺激に対して「停止を返さない」状態。

90歳の方が老衰で亡くなる時なんかは、眠るようになっても呼吸だけは止まらなくて、 そのうち呼吸は止まるけれど心臓だけは動いている状態になる。そんな状態になっても、 案外とその人は「動いて」いて、わずかな刺激で筋肉が微妙に収縮したり、 体がまだ温かだったり。

実際問題「生」と「死」の境界というのは、老衰の場合は極めてあやふやでは あるけれど、その人が「動かなくなった」という感覚で、みんな「亡くなった」ということを 理解している。これが部屋の中に心電図モニターを持ち込んでしまうと、 みんな本人そっちのけでモニター睨んでしまうから、そのあたり分からなくなってしまうのだけれど。

情報の「活き」を決めるもの

情報が「生きている」というのは、論理が停止しないで、 あらゆるツッコミに対して反応しながら、新しい情報を生み出しつづけるような状態。

「活きの良い」情報というのは、残念ながら科学よりも疑似科学に多くて、 たとえば「水は答えを知っている」理論であったり、「ゲーム脳」の一連の議論であったり。

ほとんどの似非科学理論が無視されていく中で、ああいった議論がやたらと盛り上がるのは、 たぶん論理の中心に循環論法的な円環構造をもっていて、どの方向から突っ込まれても、 自分の論理体系を破綻させない反論ができるから。

彼らは立ち位置がしっかりしているし、彼らの論理の範囲内では、きっとウソなんてついていない。

科学畑の人達が本気で攻撃する似非科学理論を信じる人達というのは、 たぶん科学畑からのツッコミに「防戦している」なんて感じていなくて、 むしろ「論破している」していて、それが楽しくてしかたがないはず。 楽しさは伝染するから、論争が過熱すればするほどにコミュニティは盛り上がっていく。

ああいった似非科学が「よい」のかどうかはさておき、 ネットワークにこれだけの賛成意見、反対意見が出尽くした論理なら、 それを理解して、自分の立ち位置を決めるのことは十分にできるはず。 そういう意味で、盛り上がった似非化学というのは、十分に「信頼できる」理論にはなっている。

情報の量が信頼を担保する近未来、ただ漠然と「良い」ものになんか誰も興味を示さなく なる。「もの」を取り巻くコミュニティを盛り上げるためには、 「もの」のとるスタンスがはっきりしているさせる必要があって、 そこには当然、反対意見もたくさん出てくるはず。

たとえば「安くておいしい良い野菜」なんて立ち位置には誰も食いついてこなくても、 「寄生虫無保証だけど化学肥料一切なし」とか、「化学肥料の本当の力を見せてやる」 みたいなスタンスをとる人達には、きっと大きなコミュニティが作られて、 その言葉の真実性が、いろんなところで検証されるはず。

情報本位制社会では、八方美人が許されるのはトップランナーだけで、 2 番手以降はたぶん、プロレスみたいに何らかのギミックを背負っていかないと生き残れない。

それが本当に「良い」ことなのかは分からないけれど、 きっと今より「面白い」、それだけは確かなはず。