正しい学の衒いかた

上級生 : 先生、デコンペッてる? 研修医 : 枕2 つ分ぐらい

「デコンペる」というのは、decompensation 。代償不可能な心不全という意味。 心臓の悪い患者さんは、横になるとかえって苦しいから、 欧米では、ソファの下に枕を入れて、頭を高くして寝る習慣があるらしい。 息苦しさの指標として、「three pillows of …」なんて表現をする。

要するに「最近疲れてる?」「少しだけ…」と言っているだけなんだけれど、 たぶんこんな会話は、業界の数だけ無数にあって。

会話の目的というのは2 つ。情報の交換と、居場所を確保するためと。

仲間内にしか通じないスラングというのは、要するに「我々は同じ仲間だよね」という 確認行為だから、医師みたいに群れを作る生き物には欠かせない。

業界特有の専門用語、あるいは内輪言葉というのは、狭い業界であればあるほど、 その言葉が屈折していて、外側から見ると、何を言っているのか理解できない。

学術用語満載、俺様天才、ついてこれる奴だけ読んでみろみたいな文章というのは、 作者の気合に逆比例して魅力が乏しくて、たいていの場合、 苦労して読んだところで、何一つ役に立たなくて。

「分かりやすく書きましょう」

小学生だってこう習うのに、目指すところはやっぱり衒学的な、「内輪感」満載の文章。

言葉の魅力は背負う世界の広さに反比例する

言語には「屈折語」と「膠着語」、「孤立語」という大きな分類があって、 世界の言葉はこのうちのどれかに属していたり、あるいはそれぞれの要素を少しずつ含んでいたりする。

  • 屈折語」はヨーロッパの言語。状況に応じて、語尾が不規則に変化する
  • 膠着語」の代表格は日本語。言葉が複数の部品からなっていて、「○○する」が過去形になると 「○○した」に変化するように、意味部分にくっつく言葉が変化することで、状況を表現する。
  • 孤立語」は中国語、ベトナム語など。語が完全に独立していて、語形変化という概念がない

英語というのは、屈折語膠着語の両方を持っている。例えば考える「think」という言葉は、 英語では「thought」だけれど、これは「think-ed」なんて表現しても、一応意味が通じる。

英語は世界語。いろんな国で教えられていく中で、暗記することが多い屈折要素は減らされて、 「think-ed」みたいな中間言語が混じった「方言」がいくつもあるらしい。

こうした「簡易英語」というのは、伝統的な英語を話す人達が聞くと、どこか垢抜けない、 魅力に乏しい会話に聞こえるらしい。

言葉というのは、最初は「孤立語」から始まって、それが中途半端に規則化されて「屈折語」 となり、いろんな言葉が混合していく中で文法が整備され、「膠着語」へと行きつく。

中国語という例外がある時点で仮説が崩れるけれど、言葉の最初は小さな部族。

家族的な集まりの中でなら、お互いに共有している分化要素は大きいから、 孤立語での会話が十分可能で。部族がだんだんまとまっていく中で、 共有している文化がだんだんと減っていくと、孤立語での会話が成り立たない。 よく似た単語が整理されて、状況に応じて「屈折」して。

部族がもっと大きくなって、みんなが共有している「文化」なんてものが姿を消してしまうと、 言葉は単なる情報伝達のツールとなって、文法が整備された膠着語へと進化する。

実用的には、その進化は意味があるものだけれど、元の言葉を知っている人から見ると、 進化した「新言語」はなんだか味気ない、文化の香りがしない、魅力に乏しいものに見えるのかもしれない。

日本語なんかだと、例えば地方ごと、職業ごと、身分ごとに使う言葉が微妙に違っていて、 そういった「内輪言葉」を知っている人が共通語を聞くと、やっぱり味気なく聞こえるらしい。

孤立語の最大派閥、中国語は、もともと4つぐらいの言語圏に分かれていたけれど、 テレビの力を使って、一つの「共通語」に強力にまとめられつつある。伝統的な北京語とか、 四川語みたいな言葉を使ってきた人達は、共通語を聞いてどう感じるのだろう?

文章の構造要素と情動要素

建築で例えると、屋根や壁、柱みたいな「構造要素」と、家の塗装や壁に飾る絵、 部屋に置く家具の選択みたいな「情動要素」と。

ネット世界に流通している様々な話題を収集して、それを自分なりに考察・加工して発信する。

ネット世界で何かを調べて発信することは、このくり返し。

情報は増えて、技術は進んで。興味の方向性、あるいは情報加工の「くせ」みたいなものが その人の個性となって文章に出るけれど、このあたり、たぶん将来的には機械化可能。

個別対応したgoogle ニュースとか、Amazon の「お勧め本」とか。

まだまだ精度は今一つだけれど、 Web サービスに自分の個性を外部化する手段というのは、すでに実装されていて。 すべてを外部化していって、情報の収集、あるいは加工に至るまでが自動化されてしまったとき、 発信される文章の「構造要素」には意味がなくなって、情動要素だけが残るはず。

「同じ言葉をしゃべる我々は、きっと同じ文化を共有できるよね?」

ネット文化が行きつく先は、きっと情動要素の時代。「情報それ自体」というのは 単なるきっかけにしかすぎなくなって、大切なのは「単純につながること」。 つながって何かを得るとか、一緒に何かを生み出すとかじゃなくて。

なんだか分からないけどすごそうな

「内輪」が作るのは「境界」。

境界の役割は、「中に入った人どうしが親しくする」ことと、「外からの進入を拒む」こと。 内輪言葉を情動要素に使うと前者が、構造要素に用いると、後者が強調される。

「よく分からないけどすごそうだ」という印象をもつ文章、専門用語使われまくりなのに、 なんだか読んでみたくなる文章というのがあって、それはたいてい、文章中の「どうでもいいところ」に 呪文みたいな専門用語が散りばめられていて、そのわりには文章全体が言いたいことはしっかり伝わる。

ところが、「これだけは言っておきたい」みたいな大切な部分、文章の構造要素に 専門用語を使った文章というのは、分かりにくさが前面に押し出されてしまう。

たとえば「ダマジオ的な情動こそが、社会倫理を形作っている」みたいな文章。

文章中、「○○こそ」なんて強調されている内容は、文章の構造要素。 ダマジオは脳科学者。「情動」という言葉を、ちょっと特殊な意味で使う人。

残念ながら、ダマジオ知らない人は、こんな文章読んでも意味が分からないし、 「ダマジオすげぇ」なんて思えない。構造要素に専門用語を入れた文章は、 作者とダマジオ、その両方を不幸にしてしまう。

内輪言葉の面白さというのは、会話の情動要素にこそ生きてくる。

作者と読者と専門家

大昔。言葉が乱されて、バベルの塔が崩れた。

言葉を乱したのは「神様」ということになっているけれど、 あるいはそれは、大きすぎる世界を前にした人間自身が望んだことなんだと思う。

大きなコミュニティからは「つながる感覚」が失われて、コミュニケーションを続ける意味が 失われてしまうし、小さなコミュニティが煮詰まると、今度は外部とのつながりが断たれてしまって、 それもまた息苦しいし。

作者がいて、助言をしたり、方向を決めたりする内輪の親しい専門家が何人かいて、 コミュニティ全体を盛り上げたり、新しい話題を提供してくれる、多くの読者がそれを囲んで。

そんな幸せなコミュニティを維持していくのは大変だけれど、コミュニティを外と隔てる 境界を操作するのは、たぶん「内輪言葉」の持つ力。

上手く使えばきっと大切な道具になるはず。