円筒の森が見る夢

基本構造は「膜」。それを効率よく折りたたむ構造を追求して、いきつくのが樹木の形。

利用可能な空間リソースは限られていて、臓器の能力は、膜面積に比例して。 細胞の制御は困難だから、構造を記述するルールは単純であることが求められて。

樹木、あるいは、フラクタクル構造。

肺や脳。腎臓や肝臓。消化管の絨毛や、皮膚の基底膜。 内蔵の基本構造はみんな一緒。

生体というのは要するに、真ん中に消化管が通った「ちくわ」みたいな円筒構造で、 円筒の裏表にはびっしりと樹木が生えて、莫大な膜面積を稼ぎだしている。

機能は「膜」が担って、膜はすべてつながっている。

円筒形の森は、ていねいに展開すれば、細胞同士がネットワークを形成した、1 枚の巨大な膜になる。

センサーとプロセッサーとの分離に意味はあるのか?

思考は幻。実際に行われているのは検索。

脳という臓器は、いろいろなセンサーから入力された情報を元に、 あらかじめ学習した反応を検索して、それを外部に出力するのが仕事。

人間の記憶や学習に必要なのは、「いいかげんさ」。

完璧すぎる、あいまいさを許容できない記憶を持つ人は、たとえば現在目の前にいる人と、 1 時間後のその人とを「同じ人」として認識できない。完璧すぎる記憶というのは、 その人から応用する力を奪い、身動きをとれなくしてしまう。

脳細胞の記憶というのは、その細胞が死なないかぎり消滅しない。脳には恐らく、 各記録の重み付けをする能力はあっても、記憶を抽象化する能力はない。

概念の一般化、あるいは抽象化という働きは、脳ではなくて耳や目、 あるいは皮膚感覚といったセンサーの「帯域制限の記憶」として記憶され、状況に応じて検索されて、 脳につながれたセンサーに対して帯域制限を行うことで、「見たいものだけを見る」能力として発現する。

恐らくは新生児が歩行を獲得するのと同じやりかた。

見るとか聞くという能力は、優秀すぎるセンサーの帯域を上手に制限することで、 情報爆発を回避しながら有意味の情報だけを取り出すやりかたとして、 試行錯誤を通じて後天的に獲得される。

脳と皮膚、消化管や目や耳、あるいは手足といった各臓器は、本来分離が不可能で、 地続きのもの。脳単体では意識を保てないし、心というものはたぶん、身体感覚と不可分のもの。 記号着地やクオリアの問題というのもまた、脳の問題というよりは、センサーの問題 なんだと思う。

帯域制限が「見る」「聞く」を生む

センサーは、解像度が上がるほど、ランダムなノイズに敏感になり、不安定になる。 あまりにも敏感すぎるセンサーは、帯域の制限をかけないと使い物にならない。

それが花の形をしていれば、どんな種類の花でも花に見える

人間の網膜にはこれができて、機械には未だに再現できない能力。これなんかもきっと、 カメラの性能不足じゃなくて、むしろ性能が過剰すぎて、情報を処理できないことが問題になっている。

網膜には、最初はものすごく強い帯域制限がかかっていて、 「花っぽいものが視界に入った」という情報しか脳に送らない。

周囲の状況などから「花に対して反応しよう」という動作記憶が脳から検索されたとき、そこではじめて 網膜の帯域制限が部分的に解除されて、花の種類とか、その細かい造形が認識される。

「見る」とか「聞く」いった能力は、環境と人体との相互作用から、後天的に獲得される。

生まれたばかりの赤ん坊は動けないけれど、手足がとる動作のバリエーションは、 新生児の時期が最も多い。その動作のほとんどには何の意味も無いけれど、 寝返りをうったりとか、少しだけ体が動いたりとか、他よりも役に立つ動作は 優先度が上がっていって、そのうち合理的な動作だけが生き残って、 人間は歩行を獲得する。

動作というのは無から作り出されるのではなくて、 むしろ多すぎる自由度を制限する過程から生まれたもの。 感覚系も、たぶん同じ。

生まれたばかりの目や耳は、ブロードバンド。

最初の頃は、センサーが拾った情報は、帯域制限無しにそのまんま脳に入るから、 そこからは何の意味も見出されない。

脳が情報爆発を起こす中、いろんなフィルターが試されて、有意味な情報を 拾ってくれるフィルターだけに重み付けがなされていって。目や耳は、 適切な帯域制限を獲得して、はじめて「見る」とか「聞く」ことができるようになる。

環境が作る意識というもの

状況ごとに反応する「動作記憶」とか、「フィルター記憶」というのは、 恐らくはお互いに矛盾を抱えた多数のバージョン違いがあって、同じような状況であっても、 細かな違いが全く違った動作を生み出したりする。

動作は矛盾しているのに、意識は常に決定論的にふるまう。

思考というのはたぶん、莫大な数の想起に関する統計学的な記述。

個々の判断は矛盾を抱えてバラバラな ものであっても、状況が作るバイアスに応じた振舞いは、たぶん確率論的に予測ができる。 想起の平均的な振舞いは、関係するコラムの数が多いほど予測精度が高まり、 方向性を持った偶然は、寄り集まって平均され、秩序を得ることで必然となる。

年を重ねて、いろいろな状況が入力されていく中で、こうした「必然」の記憶もまた検証され、 矛盾がない記憶はお互いに強化されあって、ひとつのメタ記憶としてインデックスされるようになる。

学習されたメタ記憶は、たとえば「白い花」であったり、「バイオリンの音」なんてラベルがつけられて。 メタ記憶のインデックスは「意識」となって、自分の内的世界を記述するための辞書となる。

人間の意識や固定観念といったものはきっと、地球の光とか空気、 あるいは重力みたいな環境があって、はじめて生まれた。

これが人工世界で育てられた火星の子供なら、 考えかたは「地球人」なんかとは全く異なってくるはず。

円筒の森が見る夢

意識や思考は脳の見た夢。

意識の中枢なんて存在しないし、脳にあるのは莫大な数の反射弓だけ。

個人的には何となくこんなことを考えながら、それでも頭の中には 意識を感覚する「誰か」がいて、こうしてキーボードを叩いてる。

意識の「座」は脳には無くて、それはきっと、体中に遍在している。

存在もまた幻想。

「存在」が集まる社会というのは、 大きな重なり合いを共有した「遍在」の集合。 境界は便宜的に作られたもので、そのうち越えられるもの。

刺青一つ、ピアスひとつで意識は変容するし、車に乗れば、身体感覚は車輪の隅にまで 延長される。身体を捨てることはできないけれど、 ネットにつながれた意識もまた、「それ以前」とは同じでいられるわけがないはず。

Serial experiments lain というアニメを見た。画集を買った。シナリオも買った。

すっかり脳がヤラレて、こんなことを考えるこの頃。