子供の国の不純な医学

口頭弁論。遺族の方々は「命を助けようとする必死さが伝わってこなかった」と訴えた。

大切なのは科学じゃなくて、家族や世論がどう思うのか。そんな時代の生き残りかた。

  • 患者は治癒でなく、感情を買いに来る。問題は生死などではなく、物語の一貫性
  • 「後ろ向きに前進」は「後退」ではない。医療の主人公が「事実」から「物語」に変わった時代 に求められることは、患者の物語を壊さない工夫
  • 「とりあえず様子を見る」は最悪の手段かもしれない。わざわざ病院に足を運んだ 立場からすれば、それは「無駄足を踏んだ」物語を転がしてしまう
  • 様子を見た先に何があるのか、 それが説明できないならば、少なくとも様子を見ることしかできない医師の無能を相手に詫びるべき
  • 患者は平等でない。価値は声の大きさで決まる
  • 優先順位は「失って困る人」が先。「問題なく治る人」が先。 「若い人がじんま疹で入院」なんていうのは、ウルトラハイリスク
  • 「失って困る」けれど「直すのが難しい」患者さんの治療は考えどころ。リスクをとって 「治しかた」を考えるのか、あるいは最初から「看取ること」を考えて、演出に走るのか。 医師の覚悟が問われる
  • 診察場所はベッドサイドや外来だけではない。病院の外、病院の待合室や、 駐車場での些細なおしゃべりがとても大切。 失態の挽回も可能だし、あるいは気を緩めて大失敗する可能性だってある
  • 強力な味方を作る努力よりも、つまらない敵を作らない努力が大切。 自分にしか出来ない、どんなにすばらしい治療を成功させたところで、 すり傷に消毒薬を塗りこむのを怠ったらおしまい
  • 原因を患者側に求めてはいけない。患者さんは救済の物語を買いにくるのであって、 罪悪感を買いたいわけではない
  • 「治癒率は6割ぐらい」みたいな議論は不興を買うだけ。患者が聞きたいのは、 確率じゃなくて意思表示。「分は悪いですが頑張ります」のほうが正しい
  • 全体論がいつも正しいわけではない。「みんなこうですよ」は、 それを知りたくない個人にとってはどうだっていい。 葬儀社の人は、尋ねない限りは絶対に相場を教えない。 「みんなはどうしているんですか?」と訊かれないかぎり、「みんな」を切り出してはいけない
  • 話は「患者さんの痛いところ」から。医学的に重要な問題と、患者にとって重要な問題とは しばしば異なるし、医学を優先すると不興を買う。たとえ日本でクーデターが起きたとしても、 同じ日に子供が殺される事件があれば、「おもいっきりテレビ」が一番に報道するのは子供の映像
  • みのもんたのすごさを謙虚に学ぶ必要がある。あの人のすごさというのは、 自分を知的に見せようと思っていないところ。 「上から目線」を感じさせないから、あれだけ無茶しても視聴者が敵に回らない

魔法と理解とを分けているもの

原子炉問題。

環境保護団体の人達と、原子力発電所の専門家。設計図を前に対峙したところで、 専門家でなければ「炉心を囲むコンクリートの適切な厚さ」とか、 「配管に必要なステンレスの品質」なんてものはわかりっこない。

原子力の専門家なんて、魔法使いを相手にしてるのと同じ。核心については専門家任せ。

それでは環境団体の面子が立たないから、屋根の色が景観にそぐわないとか、 自転車置き場の面積が少ないんじゃないかとか。細かいツッコミをたくさんいれて。

同じ専門家のはずなのに、医師を相手にするときは、患者さんはたいてい、医療を「理解」している。

病院にくると、誰もが炉心を囲むコンクリートを気にするし、 ステンレスの品質なんかについても、一家言持ってる人がすごく多くて。

設計図は訂正で真っ赤になって、「原子炉」はしばしば、その動作すらおぼつかなくなって。 炉心崩壊して、結局すべては医師のせい

技術の理解と子供の国

なぜ医療なのか

恐らくは同じ感覚を持っているのが、たとえば教育現場の人達であったり、 もしかしたら進化論学者の人達であったり。プログラマの人たちなんかもきっと、もうすぐこちら側。

「魔法使い」と「理解可能な技術」とを分けているのは、 たぶん素朴な理解モデルを作れるのかどうか。

技術というのは、最初は「魔法」から始まる。それが成熟して、他の様々な分野から要請があって、 技術のカプセル化、モジュール化が押し進められた頃、「間違った理解でも、運用自体は可能」な 素朴な理解モデルが作られる。

理解モデルはそのうち独り歩きをはじめて、「技術モデル」と「素朴な理解モデル」とが しばしばぶつかりあうようになり、モデルの差分は、技術者に対する不興となって埋め合わされる。

技術労働はいつしか感情労働となり、技術優先のやりかたは顧客の不興を買うばかりになって、 感情モデルが技術モデルに優先するようになって。行きつく先は、 「純粋な子供達が、不純な大人を支配する」時代。

寺山修司の「トマトケチャップ皇帝」は、大人に虐げられた子供たちが立ち上がる物語。

もうがまんならない、権力の押しつけはごめんだ。すべて親たちは、"大人狩り"の対象にすべきだ。 われわれは大人につくられたのではない、むろん大人のための家庭の、半ズボンをはいた家具でもない。 われわれはわれわれ自身である。いっさいの大人は収容し、そして子どもに固定観念を与えた大人は、裁判にかけて処刑する。

物語では子供が世界の皇帝になって、大人は捕らえられ、子供が親を虐待する。

子供の仕事は「悪い大人」を密告して、皇帝の前に引きずり出すこと。

みんな捕まえられて、世界から大人がいなくなった終盤、 皇帝の近衛兵になった子供は、保身のために自分の母親を密告する。

こんな手紙を書く。

死刑にならずに、気違い病院に入れると良いと願っています