足りない人が語る夢

研修をした小さな民間病院では、月30万円。

ある程度経験を積んで、大学病院で働かせてもらった頃は、大体その半分ぐらい。 家庭を持ってるとこれでは足りないから、あとはアルバイトで補充。

年次が重なる。いろんな人に会う。

大学教授。僻地を一人で支える医師。部長や病院長。みんなすごい人たち。

たまにテレビを見る。大金持ちの医師。ポルシェを3台持っていて、週末は白金で買い物。 馬鹿だな思う。「こんな奴らにだけは、なりたくないよね」なんて。

年次がまた重なる。限界が見える。またいろんな人を見る。

幸せそうでない人達。苦労して業績だして、自分なんかよりもはるかに高い所を見た人達。

業績はその人に報いない。結果を出して、病院内でのポジションは上がって。 それでもやっぱり暮らしていけなくて、みんなアルバイト。 大学教授も、病院長だって、そのへんはみんな一緒。

みんな苦労して、寝ないで前に進んで、だんだん疲れて、また年次が重なって。

テレビに笑っているのは、大金持ちのお医者さん。

グルメ番組で、「おいしい、おいしい」を連発していた。あれだけ馬鹿にしきっていたはずの笑顔が 何故だかまぶしく見えてきて、「おいしいもの」を食べたくなって。

お金のことを真剣に考えるようになったこの頃。

アメリカの循環器専門医

米国の循環器専門医。

神様みたいな存在。厳しい競争を勝ち抜いて、もっと厳しい訓練に耐えぬいた人達。

専門医の人達は、何年間かの厳しいレジデント期間を終えて、専門家として現場に戻る。

修行期間の終了直前、彼らは全米の病院に手紙を書いて、 1ドルでも多いお金を出してくれる施設を必死で探す。

誰が一番すごいのか

走るのが得意な奴。絵を書くのが上手な奴。数学が得意だったり、口喧嘩ならクラス最強だったり。

欧米流は、「誰もが一番」。子供の個性を大切にして、誰もが何かを誇れるように、長所を探す。

大人になると、どんな個性もお金で査定される。

まじめな医師。器用な医師。患者思いの医師。いろんな「良さ」を査定するのは、経営者。

誰だって負けたくない。順位がつく場所には、絶対に勝者と敗者とがいて、 「負け犬」がいないと、勝者は勝利を誇れない。勝ち負けを決めるのは給料だから、 みんなそれはもう、必死になって病院を探す。

「負け犬」っていうのはどういうわけだか負け癖がついていて、 子供の頃に負けた人は、いつまで立っても負けのまま。

ずっと「負け犬」と呼ばれつづけた子供は高校生になって、 たまには勝者の側に回りたくなって。子供はあるとき、銃をかついで学校行って、 同級生から勝利を分けてもらおうとした。コロンバイン高校の銃乱射事件。

「勝った」状態と「負けていない」状態。子供の頃は誰もが勝者になれたけれど、 社会に出ると、「勝った」人なんてほんの一握りで、あとはみんなで負け犬探して、 「負けてない」自分を見て、胸をなでおろす。

米国人医師の気持ちなんて分からないけれど、彼らが食べるご飯というのは、 たぶんあんまりおいしくないんだと思う。

東急建設のこと

大学教授の給料なんてたかが知れてて、あの当時そこしか買える土地が無かったから、 うちの実家は「○○大学教授」の肩書きを持った人たちばっかり。

東急建設が作った町。昔は沼地で、人なんてよりつかない場所。雨が降ったら洪水になるし、 水が出ていく先がないから、地元の人はよりつかない。

沼地だったところに土が入って、新興住宅地には真新しい家が並んだ。

小学校の頃は、毎年の洪水。道路に近い、一番便利な土地を買った家は、 毎年梅雨時になると車が道路に浮かんだ。子供の頃は面白がってばかりだったけれど、 たぶんあの頃、大人達は「騙された」と思ったんだろう。

小学校も中学年になった頃、洪水ばっかりだった町には幅4m ものドブ川ができて、 近くに巨大な遊水地ができた。

多摩川にまでつながっていると言われたドブは、子供の遊び場として最高で。 飛び降りて骨折る奴とか、ドブには何故かマンホールにつながる「抜け穴」が ついていて、みんなで中に入って出られなくなって、泣き叫んで大人に助けてもらったりとか。

溝掘っただけだったドブ川は、そのうちコンクリートが打たれた本格的なものになり、 遊水地はもっと大きくなって、そこがグランドに改造されて、新しい小学校ができたのは6 年生の頃。

「初代児童会長」の肩書き持ってる子供なんて何人もいないから、それだけちょっと自慢。 その小学校も児童減ってしまって、もうすぐ閉校だとか、老健施設に改造されるとか。いろんな噂。

中学校に上がる頃。もう洪水なんて昔話で、みんな「騙された」と思った沼地は、 いつのまにか高級住宅地なんて扱い。もう十分過ぎるぐらいに便利になったのに、 町にはさらに鉄道が延ばされて、公園が整備された。

多摩川にまでつながっているドブ川。その地上には延々と散歩道が整備されて、 散歩する人なんてほとんどいないのに、今でも公園は延びつづける。あれはきっと、 そのうち本当に多摩川まで公園になるんだと思う。

30年も経った古い町。いまさら公園作ったところで、 町の付加価値なんて変わらないはずなのに、 町の整備はまだ続く。

東急グループは、最初は悪徳。強引な買収で悪名をはせて、二束三文の土地を高値で売って、 大きな財をなした。

東急グループの中の人は、それでもたぶん足りなくて、ごはんがおいしくなかったんだと思う。

お金ができてまだ足りなくて、グループが巨大になってもまだ足りなくて、 美術館を作ったり、「美しい町」として売り出した沼地を、 本当に美しい町にしてみたり。

そんな人達が「足りる」ためには、きっと夢を語って、その夢に共感してくれる人が必要で。

町を作った東急グループの2代目は、町が出来上がった最後の最後、 80年代の終わりにやっと何かを語ろうとして、その直後に亡くなった。

崩壊の階段を逆走すること

最初はに対価を求めて、組織が少し大きくなって、走りつづけるのに疲れた頃は、 そこにいることが名誉になって。

大きくなって硬直した組織の屋台骨には、 シロアリみたいな新参者が食いつきはじめて、組織は魅力を失って。

シロアリ連中がだんだんと力をつけて、組織の意味が「大きいこと」だけになった頃、 人をそこにとどめる力はお金になったり、あるいは地方の団体職員みたいに、時間になったり。

世の中にはきっと、「足りている人」と「足りていない人」とがいて、同じ物を食べても、 足りている人にとってはおいしいものが、足りていない人にとってはそのおいしさが分からない。

感覚の足かせになっているのは、足りている人に対する負い目であったり、 安心するためにまず負け犬を探す、そんな努力に費やすリソースであったり。

自分の目から見て「足りている」ように見える人というのはたしかにいて、 その人達すべてがびっくりするような大金持ちかといえば決してそんなことはないし、 その人達が本当に「足りて」いるのか、それは本人じゃないと絶対に分からないこと。

お金だけじゃない。それはきっと間違いないんだけれど、それなら自分が「足りる」ためには 一体何が必要なのか、未だに全然分からない。研修医の頃は夢を追いかけて、 大学病院に勤務する名誉を得て、それでもやっぱり何か違って。

師匠から習った「組織崩壊の4段階」。階段の向きは「降りる」方向だけで、 上ることはありえないなんて習ったけれど、あるいはもしかしたら、 この階段を上がる人達というのがごく少数、世の中にはいるのかもしれない。

最初はお金。ひたすらお金お金で始まって、いろんな贅沢をして、それでもたぶん、足りなくて。

足りないものを探していく中で、階段を上がる道を発見して、 そんな人達は会社を大きくしてみたり、莫大な寄付をしてみたり。名誉を求めて。

もっとも「足りていない」人というのは、最終的には夢を語って、 それに共感をもらって、はじめて「足る」を知る。

政治家とか、企業の偉い人達とか、適当な夢を語る人達が増えた。

「夢」はウソをつく。それは安価に人を使うための方便だったり、 夢を語ることそれ自体を利権にしていたり。

夢の真実性を評価するには、それを語る人の行動を見るのが一番確実で、 「足るための必要」があって夢を語る人というのはきっと、 最初は悪党として世の中に出て、「足らなさ」につき動かされて、階段を逆走する。

ほとんどの人が「足る」を求めて階段を下りる昨今、 その階段を逆走する人というのはどう見ても犯罪者で、 メディアはたぶん、そんな人達を叩くはず。

「足らない」悪党が語る夢。それはきっと多くの人達の反感を生むものだけれど、 案外きっと、真実が隠れている。