意識の考えかた
うちのサイトで時々妄想する「意識」とか「脳」に対する考えかた。
- 脳には「OS」に相当するプログラムなど最初から実装されていない
- 外部からの刺激に対して、確率論的に最も適切な反応を予測して返しているだけ
- 脳をコンピューターのアナロジーで描写することには無理があり、 むしろ巨大なデータの固まりとして見たほうが正しい
- 理性と感情とは並列的なもので、どちらも検索されるのを待っている、単なるデータセット
- すべては「想起」。「思考」は錯覚
- 「1+1」という問題。脳は演算を行っているのではなく、 経験的に「2」という数字を思い出している
- 幾何学での「補助線」は、思考のログではなく、むしろ想起のログ。 初見の図形を、データベースに引っかかる形に帰着させるための試行錯誤の結果
- 「複数候補からの選択」を、脳は行っておらず、すべて「1対1対応」で カバーしている。データは巨大化するけれど、そこは力技で解決
- 太古のAI 「イライザ」は、実はかなりいい線をいっていて、データベースの大きさを 天文学的に大きくすることで、その先にたぶん、人間的な振る舞いが見えてくる
- 足りないものがあるとすれば、刺激の帯域制限機構。網膜の光刺激などは、 無数の情報をもう一度網膜側にフィードバックして、「見たいものしか見えない」制御を行っている。 言葉の認識や、触覚や味覚なんかも同様の機構があるのだと思う
- 「意識」というものは人間の活動には関与しておらず、刺激に対してからだが行ったことを、 「判断」あるいは「思考」として追認しているだけ
- わざわざこんな面倒なことをするのは、「刺激-反応」系を物語として抽象化することで、 メモリーを節約して、汎用性を高めることができるため
- 意識というアプリケーションの唯一最大の功績は、他人の動作記憶を「物語」として 自分に導入できること
- 「レインマン」の中の人は、記憶を動作に結びつけることができないので、 学習しても動作が改良されない
- 刺激に対して適切な反応を予測することが脳の仕事で、 脳には「予測の的中」に対する報酬系だけが実装されている
- 予測の適切性、あるいは報酬の査定を行う部分が辺縁系のどこかにあって、 これが個人の「意志」とか「個性」として、記憶されている無数の 「刺激-反応」データに対して重み付けを行っている
- この流れが一方向性のものなのか、あるいはデータの 集積が意志に影響を与えうるのかは想像の埒外
昨日の文章の追記。
私が「意識」だとか「思考」だとかの文章を書くときには、脳の働きを上のように 想像しています。
脳科学畑では、こんな考えかたは珍しくも何ともなくて、たぶん昔からある、 ありきたりなアイデアなんだと思いますが、私が適当に読み散らかした本の中から 勝手に想像しているものなので、たぶん穴だらけです。
こんなことを書いておいてなんですが、こんな概念もすぐに忘れてしまうので、 過去の文章を読むと「脳のOS」とか、「帯域幅」とか、コンピュータのアナロジーを平気で 使っていたりします。
意識は単なるアプリケーション。ならば意識というアプリケーションは、 どんなOSの上で動いているのかという疑問が当然あるはずですが、知りません。
このあたりのテーマを正面から描こうとしてかすっているのが「神は沈黙せず」だったり、 かすめている振りをして、たぶん真ん中ブチ抜いているのが「人類は衰退しました」 だったりしますが、寡聞にして他の小説を知りません。
「こんなの読んだ?」みたいなご指摘をお待ちしています…。