公理の壁を越える技術

助産院のこと

  1. 母と子の絆は何よりも大切。分娩後直後は臍帯を切らないで、 お母さんの血液を子供に分けてあげるべき
  2. 娩出後の子供に過剰な臍帯血が流入すると肺水腫を生じてしまう。臍帯は速やかに切断するべき

西洋医者は2 番の立場。子供の肺は大切。

けっこう多くの信者さんを集めている某助産院は、1 番の立場。絆が大事。

絆理論」はシンプルで一貫している。

血液を分けてあげたら、その次は母体とのスキンシップ。 カンガルーケアといって、生まれたばかりの赤ん坊をお母さんに抱きつかせて、 すぐに母乳を与える。その後の育児とか、赤ちゃんとの接しかたとか。すべてはから。

「絆理論」で子供を育てても、頑丈な子供なら、とりあえずは死なない。 多少の肺うっ血は乗り切れるだろうし、 生まれてすぐだと母乳は誤嚥するだろうけれど、運がよければ助かるし。

運が悪くても、たぶんそれは絆理論のせいではなくて、 お母さんの心がけが悪かったか、あるいはきっと、病院の医者が悪かったから。

「絆」と「科学」がぶつかりあうとき

絆が大好きな助産院でも、分娩はやっぱり確率論。たまには具合が悪くなる。

娩出が上手くいかなかったお母さんが救急外来に担ぎこまれたことがあって、 お父さんもお母さんもこの理論を信じきっていて、大変だったのだそうだ。

出てきた子供は、うっ血して全身真っ黒。すぐに臍帯を切り離そうとしたら、 「何をする!!」とお父さん大怒り。

生まれた子供は息してなくて、人工呼吸器が必要で。 小児科の医師が子供を奪うようにして、集中治療室に走ろうとしたまさにそのとき、 「子供と母体を別々にないでください!!」と再びお父さん大怒り。

高学歴のご夫婦で初めての出産。熱心に勉強していて。

夫婦の言うとおりにしたら子供死んじゃうし、 絆が切れて子供が非行に走ったら、医者はやっぱり悪者になっちゃうし。

公理と議論と人格攻撃

「絆理論」に反駁するのは、とても大変。

母と子の絆は大切だよね」という公理がまずあって、助産師さんのさまざまな やりかた、産後の指導というのは、すべてこの公理を前提にして、 そこから演繹的に導き出したもの。理論体系は美しくて理解しやすいし、 理論の背後には、「絆」という、倫理的にも受け入れやすい概念がよく見える。

科学というのは、そのへん適当。

まずは病気の観察があったり、子供を助けるために「こうしたら上手くいった」という経験があって。 経験の集積をうまく説明するために、事後的に理論が作られて、検証するのはさらにそのあと。 その理論もまた、「倫理」に反していたり、複雑すぎて理解を拒む代物であったり。

「絆理論」と「科学理論」とでは、大元になる公理が全然違う。

公理から現場の理論を導くための手続きは同じだし、現場で使う道具とか、処置のやりかたも よく似ているけれど、公理が違う2つの体系は、そもそもお互いに議論を行ったり、 より正しい方向を目指して、お互いの理論を「改良」することなんてできない。

「絆理論」みたいな論理体系は、たいていの場合、公理から現場までの「隔たり次数」が 極めて近い。科学がちょっと気をつかって、「ここ間違ってますよ」なんて指摘しようものなら、 それは公理の全否定につながってしまう。

どんなに小さな変更をお願いしたって、たぶん2 言目には 「あなたは親子の絆を重視しないんですね」とか、 「パパとママの愛情が足りなかったのか、貴様?」 なんて言葉を返されて、 かわいそうな人扱いされておしまい。

相手の体系を変更するには、結局公理の否定が必要で。

たいていの場合、公理の真実性を担保しているのは、それを唱えた「個人」だから、 公理の否定は人格否定につながって。

救急の鉄火場。こんなときに「説得」とか「対話」は無意味。たぶん一番有効なのが、 「かわいそうに、またあの助産院に騙されちゃいましたね…」という一言。

理論体系は階層構造。一番上に「自然現象」があって、観察して考える個人、「人格」があって、 個人が考える「公理」があって、公理から導かれる「理論」があって。

「公理」レベルでのコンフリクトは、もっと上のレベル、「人格」レベルで否定をかけないと、 解決することはたぶん不可能。人格レベルが空白になった宗教、教祖が亡くなった伝統宗教は、 だからしばしば無敵になって、宗教戦争は2000年経っても終わらない。

技術革新は宗教を放逐するのか?

Q: 生きていくのに必要なものって何 ? A: 存在と意志。あとはただのデータ。 ――― 「玲音の日記」から引用

世界に自分という名前空間を宣言して、意志という大きなルールに従って、 すべての単語を重み付けする。データの量が十分に大きいならば、 それはもはや人間と区別がつかない。

POBox というPalm 用の日本語入力ソフトを昔から使っている。

MS-IME や「ことえり」みたいなソフトと違って、POBox は過去の文章を見て、 次に来る単語を確率論的に予測する。

打ち込んだ文章は、辞書内の単語に割り当てられた「重み付け」の変化として記録される。 次に同じ文章を打ち込むときには、「次に来る言葉」の優先順位が変わって、 以前打ち込んだ単語が上位に来る。

たとえば自分のPalm で「かい」と打ち込むと、候補のトップには「海兵隊」が出てきて、 これを選択すると、次の候補には「は」が並ぶ。順番に選択していくだけで、 「海兵隊」「は」「許可」「無く」「死ぬ」「ことを」「許されない」なんて文章ができる。

このソフトが記録する「重み付けがなされた単語群」というのは、コピーされた意識。

調子がいい時のPOBox は、個人の思考を乗っ取る。

自分が考えて文章を書いているのか、それともPalm に文章を書かされているのか分からなく なる時があったり、話の持っていきかたに詰まったとき、 POBoxの候補には、気のきいた言い回しが並んでいたり。

PDBox には、「富豪辞書」という、製作者の増井 俊之 さんが作った辞書が一緒についてくる。

使い始めの状態では、単語の重み付けは、製作者によってあらかじめ決められている。 辞書を使い込んでいるうちに、辞書の中身はユーザーがだんだんと書き換えていくけれど、 このとき実は、ユーザーの意識もまた、辞書の重み付けに影響されて、書きかえられていく。

POBoxのユーザーは、ソフトをダウンロードする。このとき同時に、 増井さんの意識の一部もまた、自分の中にダウンロードされている。

このソフトの延長線上には、 「公理」とか「人格」みたいな間接的なものを一切使わないで、 人間の意識を直接的に書き換える手段があったり、誰かの考えかたを公理化しないで、 定量可能な「重み付けられた辞書」としてデータ化する手段があったり。

人間は平等とか、絆は大切とか、水は心を知っているとか。

自分達の商売の邪魔をする、様々な公理を信じる人達は、 ぜひとも「辞書データ」を公開してほしいなと思う。

教祖が重み付けを行った辞書データというのは、その人の意識をコピーした ミームとなって、きっとネット空間に伝播する。

1 年ぐらい経って、世間で使われている辞書データすべてを加算平均して、 「標準辞書」を作る。それはきっと、辞書としては役に立たない、 無意味なデータの集積にしか過ぎないけれど、世界意思を反映した何か。

演算量が多すぎて、無意味なデータから意志を再構築することなんて無理だけれど、 幸い世界中には、様々な「意思」が流通していて、それぞれの公理に基づいた データ列を公開している。

公開されているすべての「公理=意志」と、「標準辞書」との隔たり次数を数値化すれば、 公理の序列をつけることが可能になる。

その順位は「美しさ」とか、「正しさ」とか、そんな分かりやすい何かを反映するものには ならないけれど、「世界を最も上手に説明する公理」が何なのか、それをきっと、 力技で見つけ出すことができる。

あとは遺伝子アルゴリズム。世代を重ねていけばきっと、神様の言葉、 「オリジナル・ランゲージ」に近づいていけるはず。

科学は案外、「絆」に大敗したりして…。