「人類は衰退しました」感想

  • ライフゲームを小説化したものなんだと思う
  • 旧人類はセルの初期パターンに介入できるが、ルールを知らないから結果が予測できない
  • 妖精さん」は万能だが、その振る舞いは初期パターンに縛られる
  • 妖精さん」の集合は万能チューリングマシンであり、 人類が「正しいコード」を入力してくれるのを待っている

以降読んだ人限定、ネタバレ全開で…。

妖精さん」とは何なのか

物語前半、主人公に捕まえられた3 人の妖精さんは、何もしていないのに4人に増える。

これはたぶん、ライフゲーム誕生ルール、「周囲に生きているセルが3つある空間には、 次の世代に新しいセルが誕生する」から引っ張っている。

物語中、妖精の数は急激に増えたり、あるいはいなくなってしまったり。

妖精さんは、どこかに隠れているんじゃなくて、周囲セルの環境に応じて 誕生維持死亡の 3つのパターンをとっているんだと思う。

ライフゲームのセルと決定的に違うのが、主人公が妖精さんに与えた「名前」。

物語中、名前をもらったのは4人の妖精さんだけ。主人公をはじめ、 人類側の登場人物全て、名前をもった登場人物は他に出てこない。

名前をもらった妖精さんは、もはやセル・オートマトンとしての自由な振舞いから 逸脱してしまい、識別可能な記号を持った存在として、ライフゲームの盤から 弾かれてしまうはず。

このあたり、名前をつけられた4人の妖精さん達が続編でどう絡んでくるのか、ちょっと気になる。

4人という数字で遺伝子暗号を作る4つの塩基を想像したり、消え去ることができない4つの点を持つ ライフゲームというあたりから、自己組織化を誘導するカウフマンネットワークを想像したり する必要があるのかも。

祖父の「胡乱な言葉」

  • 何事も経験値だ
  • あとは、場の楽しい度だな

引退した科学者、寡黙な賢人としての役割を果たす「祖父」は、 たぶん世界のルールを相当詳しく知っているけれど、 主人公の振る舞いにほとんど介入しない。

「胡乱な言葉」として語られる祖父の助言というのは、決定論的カオスを支配する2 つの性質、 予測不可能性初期値敏感性を、それぞれ祖父の言葉で言い換えたもの。

科学者というのは神と出会って絶望する人達。

ある科学者の所に神様が現れた 「神を信じていないそうだが、現実に私はここにいる。望みをかなえてやるが何を望む?」 科学者は即答した 「決まってる。この記憶を消してくれ」

神様が全てを決定する世界には真理が存在しない。 物事を間違えて「分かった」と認識したところで、 神様が「それでいい」と思うなら、物理法則はたぶん、その間違った理解に従ってしまう。

人類は、それが本当に理解できたのか、あるいは理解できていないのに 「分かった」と思ってしまったのか、それを確かめることができない。

妖精さん達」を見てしまった科学者は、自分達の世界が決定論的なものであった 可能性を目の当たりにしてしまう。選択は2つ。あきらめるのか、それともカオスに賭けるのか。

自分の孫に対して不介入を貫く祖父の態度というのは、 長年「神様」の存在を目の当たりにした科学者の諦めなのか、 あるいは「ランダムな変異」がもたらすブレイクスルーを信じ続ける信念なのか。

「神の部品」として世界に溶け込むことを志向した人物と、心中に「神殺し」へ の思いを持ち続ける人物。祖父の中には2 人が同居している。

久しぶりに再会した祖父は、昔と違って優しくなっていた。 物語の文脈では、厳しかった男が優しくなるときは、 その人は何かを「覚悟」したということ。

「狩りが趣味」だという祖父の銃は、一体何を狙っているのか。

そんなことを考えながら読み直すと面白いかも。

人類は何故衰退したのか

ライフゲームのルールでは、世代を経ることで最終的に死滅するパターンが多い。

物語中では「ビフテキ<=>酒」と表現されている「振動」パターンとか、 無限に続くパターンはたいてい単調で、多様性を生み出せない。

ライフゲームのパターンはチューリング完全であり、 ライフゲームチューリングマシンと同等の計算能力を持つことが示されている。

かつてライフゲーム世界に「人類」というパターンが入力されて、 人類世界が作られた。残念ながらこのパターンにも寿命があって、 人類を駆動していたライフゲームは、物語中では終わってしまっている。

停止問題を解くチューリング機械は存在しえない。 チューリングマシンは万能であるにもかかわらず、 「自らが停止したこと」を認識することができない。

人類というプログラムはもう終わっているにもかかわらず、 それを生み出した本体が「終わったこと」を認識できていないから、 何とか死なずに生き延びている。

これが単なる偶然なのか、物語上の必然なのかは、続刊で明らかになるんだろう。

せかいはもしかするとじぶんひとりのまぼろしかもです

世界が決定論的である場合、そのことが神の存在の反証になりうるのだろうか?

たとえばテニスの試合前、選手の身体測定を極めて厳密に行って、 当日のコートの具合や天気、風向きとか気温とか、あらゆるデータを採取できれば、 あるいは試合の結果を決定論的に予測できて、「勝利の女神」の欺瞞が暴かれるのかもしれない。

今の技術では、計算的複雑さが莫大すぎて、とても無理な話。

モンテカルロ法とか、遺伝アルゴリズムみたいなランダムさを取り入れて、 不完全なデータから結果を確率論的に予測する手法というのは、 時間の節約にはなるけれど、今度は計算結果の真実性を証明できない。

結果として、現時点ではまだ、計算機の力が足りなくて、神の存在は否定できない。

物語世界では、この「妖精=人類」のコンポーネントが、神様として君臨していて、 ランダムさを内包した万能存在としての神が描かれている。

「サイコロを振る万能存在」としての神様と、究極的には「はじまりの点」にしか過ぎなくて、 スタートしてしまえば不必要な存在としての神様と。両者は階層関係にあって、 サイコロを振る「下層」の神は、その目を決定する上位存在を認識できない。

妖精さん」たちに自分達の存在を「まぼろしかも」なんて考させてるのは、 「自分達の存在証明に頭を悩ませる神様」を描くという、作者の遊びなんだろう。

まとめ

この物語は、汎用可能なセル・オートマトンである「Mathematica」を小説世界に移植しようとする 試みなんだと思う。

同じ物語の枠組みを利用して、「妖精さん」の初期配列を変えてやることで、 物語は無限の多様性を生む。主人公が試行錯誤を重ねていく中で、 読者はきっと、この物語を駆動する「ライフゲーム」のルールを知って、 何巻かの物語を重ねたあとで、きっと「正解」にたどり着くんだろう。

作者が想定する「正解」が、ライフゲームの停止コードなのか、 新人類を誕生させることなのか、それとも誰かが 「終わった人類」を再起動させる何かを見つけ出すことなのか。

物語の先が是非とも知りたいと思った。

追記:言葉の解説を、Wikipedia へリンクしました。

この文章の前半部分は「複雑系」関係の入門書がたいてい扱っている話題です。

文章後半、神様の存在証明云々のくだりは、クヌースの講義録「コンピューター科学者が めったに語らないこと」を読んでいただくか、「ゲーデルの哲学―不完全性定理と神の存在論 」の 後半部分、ゲーデルの晩年、神の存在論的証明あたりのくだりを読んでいただくと、 この本をより面白く読めるのではないかと思います。