壁抜け男の憂鬱

他者とつながりたいという欲求抜きには、社会的生物としての人間は語れない。

しかしその「つながりたい」という欲求を成り立たせるためには、まず最初に、 「自分は他者と切り離されている」という感覚がなければならない。

事物がつながりを持つためには、まずもって隔てられなければならない。 孤独を自覚できるからこそ、人はつながりたいと考える。

自意識の壁は、外界との絶対的遮断を意味しない。 むしろそれは、他者とのインターフェースとして、 自意識を投影するためのスクリーンとして機能する。

劇団四季のフレンチミュージカル「壁抜け男」は、そんな自意識の大切さを謳った物語。

ミュージカル「壁抜け男」

郵政省の苦情処理係デュティユルは、平凡な独身男で、切手集めとバラの手入れだけが趣味。 要領のいい同僚たちは、きまじめに仕事をする彼を馬鹿にしていた。

仕事を終えたデュティユルが、モンマルトルのアパルトマンに帰りつくと、いきなりの停電。 毎晩のことに彼はうんざりするが、ドアを開けてもいないのに、電気がつくと彼は部屋の中に入っている。 そして再び電気が消えた時、まるで壁がなくなったかのように、彼は外の廊下に立っていた。

突然“壁抜け男”になったデュティユルはとまどう。普通の人間に戻りたい、平凡な役人のままでいたいと嘆く。 そんな思いとは裏腹に、職場で新任の上司に罵倒され、腹を立てたデュティユルは、 上司の前で壁を抜けてみせることで、その上司を錯乱させてしまう。

自信を深めたデュティユルは、だんだんとその能力を大胆に使うようになり、 いつしか壁抜け義賊“ガルー・ガルー”として、町の人気者となっていく。

壁を自由に抜けられる能力を得た主人公は、英雄になった。

英雄はその代償として、「個」として認められる権利を失った。

個人を取り巻く自意識の壁

物語の中盤、主人公は同じ町の人妻に恋をする。壁抜けができるから、 相手の部屋に忍び込む事だって簡単。義賊“ガルー・ガルー”としての彼は、町の人気者。 恋は成就するけれど、壁抜け男の「仕事」は完璧すぎて、本当に彼がその義賊だったのか、 誰にも証明できない。

壁を抜ける力を手に入れた男は、自分を囲んでいた壁それ自体が、自分という 存在を作っていたものだと気がつく。

壁を自由に抜けられる能力を身につけた主人公が、恋人に自分の存在を認めてもらおうとして とった行動とは、逮捕されて刑務所に入ること。

壁抜け男は、刑務所という「壁の中」に回帰することで個を取り戻し、 やっと世間からその存在を認めてもらえた。

「箱」の中に自分はあるのか

自分を取り囲む「自己欺瞞の箱」から出れば目の前が開けてくるとか、 本当の自分をさらけ出せれば人間関係全部解決みたいな考えかたというのは、 基本的に全部嘘なんだと思う。

「属性」や「関係」が回す実世界で必要なのは、「あるがままの姿」なんかじゃなくて、 自意識の壁に投影された、自己イメージの影絵。

わずかな時間で「あるがままの本当の姿」なんて把握できないし、「関係」というのは、 そうした「あるがままの姿」同士のつきあいを断念することから始まるもの。

属性は「あるがままの姿」をゆがめるけれど、帯域を圧縮するための大切な道具。 属性抜きにして、「本当の私」を生かしてくれる場所が 実体としてどこかにあるなんて考えは間違いで、 むしろこんな「居場所のなさ」こそが、社会を回して新しい関係を増やす原動力になっている。

「こんなはずじゃなかった」なんて相談を時々受ける。

残念ながら「こうなるべき」場所なんて世の中のどこにもなくて、分かってくれる人はどこにもいなくて。

いろんな他者との関係を作っていく中で、他人から見た自分の投影像を意識しながら、 「あるべき自分の姿」を見せやすい属性を身につける以外ないんだと思う。

パリを騒がせた壁抜け男だって、最後はまた壁の中に帰っていったのだから。