ゲームのルールと面白さ

ゲームの難度は複雑さに逆比例する

サッカーとラグビー。同じ集団球技だけれど、性格はずいぶん違う。

選手の振舞いは、ラグビーのほうが圧倒的に複雑。ボールは蹴ることも持つこともできるし、 相手がボールを持ってさえいれば、タックルして潰すことだってできる。 サッカーでは、こうした行為は全て反則。

ラグビー選手の自由度は高い。その反面、ゲームの「番狂わせ」はラグビーのほうが少ない。

コンタクトスポーツなので、強い選手を数人がかりで潰しにいけるとか、 取りうる戦略が限られているスポーツなので、特定の選手が大活躍する状況が作られにくいとか、 理由はいろいろあるらしい。

戦略の多様性は、選手の自由度に逆比例する。

足しか使えないサッカー選手に比べて、ラグビー選手は圧倒的に自由な動きが可能だけれど、 状況ごとに最適な動作というのは、恐らく一つしかない。じゃんけんと同じ。選択は出来るけれど、工夫ができない。 相手も自分も「蹴る」以外の選択しかないサッカーは、たぶん動作の選択が出来ない代わり、 「蹴りかた」を工夫する余地を持っている。

ルールを取り巻くメタルール

一番分かりやすいルールは「殺しあい」。 相手が死んでしまうなら、1 回だけ勝ちさえすれば、どんな戦略だってあり。

相手が死なない、再戦の可能性があるゲームは、 ルールを取り巻くメタルールから逃れることはできない。

勝敗はいろんなパラメーターで査定されるようになる。「チームの伝統」みたいな 関係ないドラマで盛り上がる人が出てきたり、「○○らしさ」みたいな数値化不可能なものを 論じる人が出てきたり。勝敗には全然関係しないのに、選手は「外野の声」というメタルールに縛られる。

ルールは増えて、勝利戦略はあいまいになって。選手の振舞いは制限されていく。

勝つ戦略と負けない戦略

ゲームは「勝者つ戦略」で始まり、選手の習熟と共に「負けない戦略」が支配的になる。

最初に考えることは、勝つための戦略。長所を伸ばして、攻めることを考えて。

戦略が研究されて、お互いの手の内が分かってくると、 ひとつのミスが命取りになる。自らの力でポイントを奪いにいく戦略よりも、 ミスを減らして、相手のミスを拾う戦略が有利になってくる。

評論家は番狂わせを嫌う。彼らは、「チームが何故勝ったのか」を得意げに解説したり、 勝ったチームを材料にして様々なドラマを作り出すけれど、 ひいきのチームが負けたときには面子を失う。

負けたチームの評論家は選手を罵倒する。「気合が足りない」とか、「監督が無能」とか。

チームの振舞いは、「負けない戦略」に収束していき、戦略は多様性を失う。

下位レイヤの戦いかた

評論する側は、基本的には無敵。ルールに縛られる選手にできることなんてほとんどない。

逆転の機会があるのだとすれば、上位の人達がドラマを作れなくなったとき。

選手の振る舞いをメタルールで縛りながら、評論家は多様なドラマを作り上げる。 選手の振舞いは「負けない」戦略に限定されて、 ゲームは筋書きにそった人形劇みたいなものになっていく。

人形劇が十分に面白くて、みんなの興味が続いている間は、評論家の優位は続く。 決定論的なゲームが主流になって、おもしろいドラマが生まれなくなったとき、 均衡は破綻して、評論家はその役割を失う。

常連校が出場しなくなった甲子園は、面白いだろうか?

高校野球の上位レイヤとして君臨してきた高校野球連盟は、 「高校生らしさ」とか、「甲子園のドラマ」みたいな 多様なメタルールを追加して、選手の振舞いを縛りつけてきた。

選手たちが「正しい高校生」へと収束していく一方で、高校野球連盟の人たちが今まで以上に 面白いドラマを作り出せなくなったとき、階層構造は破綻して、野球連盟はその役割を失うだろう。

「正しい」高校生による伝統ある野球大会と、「正しくない」高校生による超人野球大会と、 ゲームとして面白いのはどちらだろうか?

有名高校の監督には、こんなメッセージを出してほしかったなと思う。

伝統ある「正しい」甲子園。同じ日程で、東京ドームで「超人草野球大会」が行われたりしたら、 正しいのがどちら側なのかはっきりするはず。

神殺しを実現するために

情報というエネルギーは、「量」と「速さ」と「面白さ」という、3 つのパラメーターを持っている。

ドラマというのは、情報のもつ「面白さ」を最大にするための道具。 ネット時代。情報の量も、伝わる早さもほとんど公平になって、 「面白さ」の生む力だけが莫大になった。

もっと「面白さ」を大切にするべきだと思う。

大事なのは真実だ。どちらの言い分が正しいのか、世界はきっと分かってくれる

こんなことを信念にしていたのは、セルビアミロシェビッチ大統領。

残念ながら、「正しさ」に興味があったのは、ユーゴスラビアの一部の人達だけで、 世界のほとんどが注目したのは、「どちらを悪役にすると面白いのか」だった。

地域医療の崩壊と、武見敬三大臣の太鼓腹。

「面白さ」のパラメーターは、この両者を同じように「重要な」ものとして査定する。

正しさが切実なのは、医療の現場であったり、普段から病院を使う人達であったり。 残念ながら、こんな人達は健康な人から見ればごく少数で、大部分の人たちが 興味を持つのは、やっぱり正しさなんかじゃなくて面白さ。

医療崩壊の現場、法曹やマスコミ報道の不当性。

病院が悲惨な現状を訴えたところで、それが面白さに欠けたやりかたならば伝わらない。

選手を取り巻くゲームのルールは、選手から面白さを奪って、ドラマを書く人たちが 面白い話を書きやすくなる方向に進化する。

その流れは選手を不利にする一方なんだけれど、 必ずどこかで揺り戻しがきて、ドラマの書き手がそれ以上の「面白さ」を提案できなくなる 限界につきあたる。

「面白いドラマ」を求めて、マスコミや法曹の人達が病院に殺到して。医療の現場に いろんなメタルールが持ち込まれて、医療のやりかたが「負けない」戦略へと収束して。

医療という仕事がそれでも「面白さ」を発信できるなら、きっと未来はあるはずなんだけれど。