辺境文化が価値観を変える

「悪いこと」を知るためには、「良い、悪い」のリファレンスを参照する必要があって、 それがお互いに、あるいは社会的に共有されていなくてはならない。

人間社会には良識という基準があって、これを基準にして、「良いこと」「悪いこと」 という命令セットでコミュニケーションを行う。

「良識を持った一般市民」は、ヤクザや政治家、あるいは「声の大きな人たち」に対して無力。

力の強い人達は、良識を回避できるような社会的システムを実装しているか、 そもそも最初から良識を持っていない。

肥大した良識は、人の振る舞いを縛る。実世界と良識とが乖離して、 「持つ人」と「そうでない人」との格差が大きくなって。 たぶんそろそろ再構築が必要な時期。

「イエス」だけで犬を歩かせる

犬は「悪いこと」という概念が理解できないから、「良いこと」だけでしつけをしないといけない。

犬に飼い主のそばを歩いてもらおうと思ったら、リードを持つ手を緩めてはいけないのだそうだ。

犬を気遣うあまり、人間側の手に弾力をもたせて緩めてしまうと、犬は「もっと引っ張ろう」と 頑張ってしまう。叱ったところで、「怒られた」ことを理解できないから、 犬はうれしがるだけで引っ張ることを止めない。

散歩をしていて、犬が引っ張ったときは、その時点で飼い主が足を止めて、 リードを持つ手を絶対に動かさないようにしないといけない。

犬は引っ張るけれど、動けないし、飼い主が反応しないから、 そのうちつまらなくなって、引っ張るのを止めて、飼い主に近寄ってくる。 その瞬間を見計らって「ご褒美」をあげて、再び歩き出す。これを繰り返すのだという。

「悪いこと」を理解するには「良いこと」のリファレンスが必要

  • 犬は「うれしい」は理解できても、「良い、悪い」は理解できないから、「イエス」しか使えない
  • 人間は「いいこと」「いけないこと」が区別できるから、「イエス」「ノー」でしつけができる

人間の子供だって、スタート地点は犬と同じ。いろんな行動をおこして、 まわりの大人の反応を確認しながら、自分の中に「良識」を作っていく。

「いいこと」「悪いこと」というのは、方向性を持った概念。 ベクトル量を理解するには、「良識」という原点が必要。

良識というのはたぶん、不快な記憶の集積。

イタズラをした子供は周囲を見回して、自分のおかれた立場を演算する。 その立場に参照して、自分のやった行動は「いい」のか「悪い」のかを 評価する。

この演算をいちいちやっていたのでは反応が遅すぎるから、怒られた記憶を 「良識」として保存して、同じ状況になったとき、今度はそれを参照する。

キャッシュの参照 利点と欠点

演算がボトルネックになる状況では、キャッシュファイルが使われる。

同じような演算が続くなら、数値と答えとを記憶しておいて、次回 同じ数値が入ってきたら、演算をしないで、ファイルから答えを検索する。

Windows はフォントを計算して作り出す。いちいち計算するのには 時間がかかるから、TTFCACHE というファイルに演算結果を書き出しておいて、 同じフォントが呼び出されたとき、これを参照する。

英語ではうまく機能しているらしいけれど、日本語のWindows では、 このファイルが弱点になっている。

日本語は文字数が多いから、キャッシュファイルが巨大になる。 巨大なキャッシュファイルを参照するには、時間がかかるし、 Windows はしばしばキャッシュファイルが壊れて、OS が不安定になったり、 フォントが化けたりしてしまう。

技術の進歩はまた、しばしば「便利な機能」を過去の遺物にしてしまう。

技術が進歩して、CPU は相当に早くなった。Windows でこのキャッシュファイルを削除すると、 フォントは全て演算されるようになるけれど、もはやシステムの遅さはほとんど実感できない。

良識というキャッシュファイルもまた、社会の進歩とともに大きくなって、 いろんな問題を生じるようになった。

大きすぎるキャッシュファイルを持つ人は、それを参照するオーバーヘッドが大きくなりすぎて、 些細なコミュニケーションで、とっさの判断ができなくなってしまう。 良識キャッシュはしばしば壊れて、「OS」を不安定にしたり、 あるいはおかしな反応を返してしまう。

社会構造が変化して、世界はますます小さくなって、「場の空気」を演算することは容易になった。 それが上手な人達は、もはやキャッシュを参照しない。その場の流れで「良いこと」を演算して、 状況に応じてスタンダードを自由に変えるから、固定したキャッシュではかなわない。

キャッシュを再構築するために

社会の良識を作ってきたのは、たぶん宗教と芸術、特に児童向けの物語文学なんだと思う。

良識を表現するために、誰かが物語の形でそれを記述して、 それを伝承して広めるメディアとして、宗教とか、「お母さんの読み聞かせ」が機能して。

社会が進化して、「やってはいけないこと」のリストは莫大になった。

社会共通のリファレンスとして機能していた良識は、たぶん進化の過程の中で分枝して、 いろんなバージョンが作られてしまい、それが世界のあちこちで衝突するようになった。

物語は古来から、何らかの「衝撃的な価値観」を提示しては、 社会の良識キャッシュを再構築し続けてきた。

再構築の引き金をひくのはたぶん、良識ある家庭に育ち、 欠けるところのない健全な思考を持った主人公が、 明晰な思考の果てに自殺を選択してみたり、他人を陥れたり殺したりする楽しさに目覚めたり。 原因や葛藤の存在しない、そんな物語。

現代の物語では、殺人というのはテーマでなくて、単なる記号。

最近のアダルト向けのゲームとか、あるいは成人指定のかかった映画。 動機や狂気なんてなくて、主人公がただ楽しいから人を殺したり、 我慢しないでカジュアルに自殺したりする物語がいっぱい。

価値観は辺境から変わる。「ゲームだから」「アダルト分野だから」みたいな但し書きさえついていれば、 人間はもっと自由になれる。自由な分野で人気が出た価値観というのは、そのうちきっと 主流派が飛びついて、そこで「文壇を巻き込んだ論争」みたいな現象が発生して、 今までの物語が過去の物になる。

ゲームなんかじゃなくて、もっと「健全な」文学に耽溺するような、 健全でまじめな、生死の崖っぷちを覗き続ける「悩める若者」。 そんな人達の背中を思いっきり押すような、そんな物語を誰かが書いて、 従来の良識を伝承して来た人達が、 それに対して従来の立場からの反論を試みて。

「何故人を殺してはならないのか?」

こんな疑問が話題になるぐらい、従来の良識キャッシュは機能が悪くなってきて、 もう限界。従来メディアからは鬼っ子扱いされている物語が肯定されるとき、 そこから価値観の再構築が始まる。