経済の行きつくところ
お金を払わない人が増えた。
支払いができなくて、保険証も持っていなくて、携帯電話は何故か持ってて。 研修医の頃は数年に一人ぐらいだったけれど、最近では年に数人。今年は3人目。
病気になった人は弱者。道徳的にも、法律的にも保護を受ける対象。
お金がなくても治療は必要で、治療が成功しても、外来通院が必要で。 入院中の治療は持ち出し。外来通院が必要ならば、当然のように生活保護。 その後の生活を保証して、やっと退院。
法や道徳が支配する公平ルールというのは、弱さを主張する人ほど「強く」振舞えて、 強い人、あるいはまわりから強いと思われている人は、一方的に奪われるだけ。
「蔵」が全てを悪くした
大昔は個人主義。人間の数はまだ少なくて、お腹がすいたら山に入って、その日に食べる獲物を狩る。
山は十分に豊かだったから、争いも起きなくて。 福祉とか、平等とか、正義とか、いかがわしい理念なんて必要なかった。
安心がほしくなって、誰かが「蔵」を作った。
山に入って、そこで2 日分の食料を確保してくれば、翌日1 日は安心して暮らせる
こんなことを思いついた狩人は、山に入って大量の獲物を狩ってきた。 2 日分が1 週間分になり、1 ヶ月分になるまではあっという間。 蔵はどんどん大きくなって、蔵の中には獲物があふれる。
働いたのは狩人なのに、なぜか「みんな」が大喜び。 狩人は一生懸命働いて、蔵の獲物はいつのまにやらどこかに消えて。
安心を生むために作られた蔵は、社会を生んで、怠惰を生んで、不正を生んで、争いを生んだ。
不正を正当化するために道徳が生まれ、争いを利権にするために法律が生まれた。
社会の進歩と道徳の不実
道徳から利益を得る人と、道徳を信じて損をする人。 みんな平等のはずなのに、利益を受けるのは一部だけ。
情報公開や、権利意識の向上。社会が変化して、 情報の非対称性が解消して、道徳や法律は空虚な絵空事になった。
お金は正直。
「正直者が馬鹿をみる」「悪人が善良な人を安く買い叩く」
道徳や法律が大好きな人達は、経済の怖さを喧伝して、 自分達の正当性を声高に叫ぶ。そんな悪役であった自由競争経済は、 技術の進歩を追い風にして、今だんだんと本来の姿に近づきつつある。
インターネットの登場と、競争入札の一般化。人と人とを結びつける技術が飛躍的に進歩して、 道徳や法律が存在意義を失っていく中、経済だけが進化した。
権利の価値を査定する
「一票の価値は平等」。こんな下らない建前放り出して、 ネットオークションみたいな制度を作って、票を「入札」できるようになると面白い。
- 各候補者は、従来どおりの選挙戦略に加えて、オークションを通じて票を購入することができる
- 理念を訴えて従来どおりの選挙戦略を行うのか、票を買い込んで確実な勝利を狙うのかは各候補者の自由
- 有権者は、従来どおり好みの候補者に投票したっていいし、オークションを覗いて、 一番高値をつけている候補者に「一票」を販売してもいい
選挙戦略は多様性を増す。投票率はほとんど100%になるだろうし、 「自分の権利はいったいいくらなのか?」という疑問に答えが出るから、 政治に関する感心も高まるはず。
オークションがうまく機能するなら、信頼されている候補者の「値段」は下がって、 そうでない候補者の買取価格は高騰するはず。政治に関心がある人は興味に従って、 無関心な人や、お金が欲しい人は、価格に従って。
政治の本質が所得の再配分にあるならば、票の売買というのは正当な政治機能。
小さなコミュニティではお金の価値がものをいう。当選する人はお金で選ばれた金持ちばっかり。 そのかわり、選挙の所得再配分効果はそれだけ上がるから、コミュニティの所得は平均化するはず。
大きなコミュニティになると、票を集めるコストがバカにならなくなってくる。 天文学的な金持ちでもないかぎり、 お金の力だけで当選するなんて無理だから、政策が重視されるようになる。
みんなでお金を分け合う小さなコミュニティと、政治力重視の大きなコミュニティ。 うまく行くかどうかは分からないけれど、選挙がずっと面白くなるのだけは確か。
価格という共通言語
9 条はすばらしい平和憲法だと絶賛する人が、安保条約は日本を縛る邪魔な存在だとけなしてみたり。 理念を叫ぶ人達の議論はやかましいけれど、噛み合わない。
政治だって経済的な査定が可能。条文の「正しさ」なんかはさておき、 建前平和、本音経済の使い分け機能が実装されてる憲法のメリットとか、 アメリカの傘の下に入り込むことで実現した経済効果とか。いろいろ批判はあるけれど、 日本が経済的に繁栄したのは、やっぱりこんな条文の力。
経済的にうまくいった部分もあれば、その一方で失った部分もあって、 査定のしかたで「値段」なんていくらでも変わるんだろうけれど、平和とか福祉とか、 いろんな理念を唱える人達は、是非ともこれら条文をお金で査定して、それを公開してほしい。
エンジニアの畑村洋太郎氏が、昔病院スタッフと仕事をしたとき、一番驚いたのが、 医者が「数字」を使わずに会話をすることだった。
「硬い」とか、「赤い」とか。医療の現場には、腫瘍の「硬さ」皮膚の「赤さ」みたいなものを 数値化する習慣は今でもなくて、「部長が硬いと言ったんだから、これは相当硬いんだろう」とか、 そんなやりかた。
アナログスケールのメリットは、情報の帯域幅を喰わないこと。同じ病院内で仕事をする分には、 「硬い」の「硬さ」はかなり正確に伝わる。みんな忙しいから、「硬いよ」の一言で話が通れば、 通信コストを大幅に削減できる。
ところが、立場が違う人どうしがアナロジーで語り始めると、お互いの話が噛み合わない。
「私は硬いと思う」 「私は硬いというよりは、赤いだと思う」
この会話は、いつまでたっても結論は出ない。こんなときには数字が必須。
日本国憲法や、安保条約。条文に賛成する人、反対する人、 それぞれが条文の経済的な効果を査定して、 その価格を公開してくれれば、みんながそれに「入札」するはず。
選挙による入札というのは、自由経済市場。正しい査定を行った人が信用される。 政党が発表した「査定価格」を見て、それが「適切である」と判断した人は、 きっとその政党に投票するだろう。
正義とか平和とか福祉とか、耳あたりのいいアナロジーが実際に求めているのは、 理解なんかじゃなくて、無批判な支持。
分かりやすいたとえ話というのは、分かりやすいようでいて、 結局のところ「僕はいい人だから信用してね」以上のこと は表現できない。相互理解には、何らかの共通言語が欠かせない。
価格は行動を決定する
病院に人があふれて、医者が疲れて医療が崩れて。このあたりを解決するのは、 やっぱり自由競争経済。
- 保険診療制度は、今までどおり続行する
- 各病院は、患者さんの自費負担分について「係数」を設定して、公開する
たとえば10000円の医療費がかかったとして、現行の3 割負担なら、国からの補助は7000円。 患者さんの自費負担額は3000円。「係数1.2」を標榜している病院ならば、自費負担額は3600円。 「係数2.0」を標榜している病院ならば、自費負担額は6000円。
受けられる医療サービスは同じ。変わってくるのは患者さんの振舞い。 係数が不当だと評価された病院からは患者が去るし、 正当な係数を提示した病院には患者が集まる。
国の医療コントロール機能は失われないし、完全自由診療化みたいに、 怪しげな高額医療が跋扈する危険も少ないはず。こんなサービスが考えられる。
- タイムセール。午前中ならば係数0.9、午後は1.2、夜は2.0みたいな
- お金持ち相手を狙って、係数を増して待ち時間を減らすとか、逆に安売りセールするとか
- 競争の少ない田舎は係数高め、都会は安めになる。「地域に住むコスト」が実感できるはず
県全体、コミュニティ全体で病院がカルテルを作られると大変だけれど、 たぶん大丈夫。お客さん来ないと潰れちゃう開業医は係数を下げるだろうし、 市民病院の係数は、きっと市議会が決定するだろうし。
「価格.com」みたいな係数を比較するサイトができれば、係数を決定するための「市場」が生まれる。 実際始めたとして、「係数」はたぶん、現行の2 割増ぐらいに落ち着く。 病院の待ち時間はわずかに減って、今より少しだけ、医者の顔色が良くなるはず。
全てを査定した先にあるもの
なんでもかんでもお金で査定する立場の行きつく先というのは、 あらゆる立場、あらゆる考えかたの相互理解なんだと思う。
お金というのは本来、崇拝の対象でも何でもなくて、物事の価値を理解するための、単なる道具。
技術進化の果てに到来する自由経済というのは、お金につながらないものが無価値になる社会 ではなくて、どんなものにも誰かが価値を見出す社会。
平和とか、福祉とか。利権の影でニヤニヤしながら理念を唱える人たちが作り出した、変化を嫌う日常。 それを受け入れてしまった人は、もはや相手の悪いところしか目に入らない。
「行動すること」それ自体が馬鹿にされてしまう、死んだ理念で縛られた社会。
- 「やらなきゃ良かったのに」
- 「そんなことをしたって無駄だよ」
こんな言葉がどんなに世界をつまらなくしているのか、 理念が好きな人達は、いつまで経ってもそれが理解できない。
あなた達は好きにしていいよ。僕達にはもう、道徳や法律は必要ないから。
幼年期の終わりを告げるのは、たぶん経済畑の人達。
変容する価値観を体験するのはきっとすごい体験だし、滅びる旧世代の側に立って、 全てを見届けるのもまた、すごく面白そう。
変化に自覚的でありたいなと思う。どちらの側に立つにせよ、「その時」がきたら、 立ち位置は自分で決定したいから。