ゲノムの幸福 意志の未来

  • 個人の振舞いは、環境因子・ゲノム・自由意思の3つが規定する
  • 環境圧力が高い世界では、ゲノムの発現は抑制され、自由意志の役割が大きくなる
  • 環境圧力が減って、選択肢が増えると、自由意志の果たす役割は弱まっていく
  • 自由が進化した先に行きつくのは、ゲノムの幸福なのかもしれない

物語の柔軟性と登場人物の柔軟性

獣の奏者」というファンタジー小説を読んだ。「風の谷のナウシカ」の再来なんて宣伝されていた本。

直前まで読んでいたのが、奇蹟上等、世界分裂上等の某ライトノベル。世界が数ページごとに 崩壊しかかったり、異世界の人がいきなり登場したり。

獣の奏者」は、地球の法則がそのまんま通用する地味な世界観に、 悲惨な戦争もなければ恋愛模様もない、地味な物語。 盛り上がりと無縁な筋なのに、何故だか最後まで目が離せない。

「ゲノムが幸せそうな物語だな」と思った。

物語中の人物や生物は、みんなちゃんとした必然性、「ゲノム」を持っていて。 作者が創造した環境が、各々のゲノムに発現を要請して、それが意志や形となって、 登場人物の立ち位置とか、生物の造形なんかを決定している、そんなイメージ。

必然性は物語を柔軟にする。

  • 獣の奏者」は、読書感想文の書きやすい物語
  • 典型的なライトノベルは、サイドストーリーを創作しやすい物語

この2つは似ているようで全然違う。

読書感想文が書きやすい物語は、登場人物の会話とか、生物の造形なんかが必然性で 穏やかにつながっていて、そのつながりを変更するのが難しい。その代わり、つながり自体は 柔軟だから、物語全体は、見かたによっていろんな形に姿を変える。 「獣の奏者」は、主人公の成長物語として読んでもいいし、 生物進化とか、自然保護的なテーマ、あるいは力と政治の物語としても解釈できたりして。

天変地異を許容するには、世界を相当頑丈に実装しないと、物語が破綻してしまう。 魔法や奇蹟が当たり前のように登場するライトノベルなんかは、 たぶん書き始める前に設計図がきちんとひかれている。

頑丈な世界観を駆動するのは、登場人物の自由意志。奇蹟を許容する人物造形は、 必ずしも必然性を持たないけれど、幕間の出来事を想像しやすい。 その代わり、物語の柔軟性は少ないから、読書感想文は書きにくい。

日本家屋のゲノム

日本の江戸時代の屋敷には、設計図なんて無かったのだそうだ。

大工さんは、まずはひとつの部屋を全力で完成させて、 顧客の家族構成とか、土地の形なんかに合わせて、順番に部屋を作っていった。 大工さんの頭には完成品の全体像はなくて、「家というものはこんなもの」 みたいな建物のゲノムだけが実装されていて、 環境要因に合わせて、その発現を調節して。

日本家屋は上から見ると微妙に歪んでいて、 たぶん一軒一軒微妙に形が違ったりするんだろうけれど、その形は「在るべくしてそこに在る」 ように見えたんだと思う。

西洋家屋は、まず図面をひいて、図面のとおりに石を組む。 出来上がりは厳密だけれど、その形はもしかしたら、環境が要請した形とは 微妙にずれていたのかもしれない。

大きくなる雑種

雑種の犬を飼ってる。4ヶ月でもう7キロ近くになって、まだまだ大きくなりそう。

雑種は大きくなるものなんだそうだ。

小さな犬と大きな犬とが交配するからなんて理由じゃなくて、交雑を重ねることで、 品種の抑制が外れるからなんだという。

もともとの犬は、それなりに大きな生き物だった。その大きさには環境に適応した 必然性があったし、牧羊犬とか、そり犬なんかは人間にも目的があって改良されたから、 犬の造形にも意味があった。

近代になって、家庭犬の需要が増えて、犬は「かわいい」ことが求められて、 犬を小さくする改良が加えられた。

この「小ささ」には必然性があんまりなくて、無理に小さく改良されて性格が悪くなったり、 ミニチュア化されて腰椎に変形を生じるようになったり、いろいろ無理が出てくるようになった。

品種改良や品種の固定というのは、もともとの犬のゲノムに抑制をかけて、 人にとって好ましい形を得る行為。交雑すると、こうした抑制が解けてしまって、 雑種特有の顔立ちになって、雑種特有の大きさを持った犬になる。

うちの雑種は、純血種特有の顔立ちとか、特徴的な体型なんかとは無縁で、 良くも悪くも無難な顔、無難な体型だけれど、本気出すともう人間では追いつけないぐらいすばしこい。 寝ぼけた顔立ちだけれど、身体能力だけは、最近流行の「ミニチュア○○」系の犬よりずっと上。

純血種と雑種。ゲノムはそんなに変わらないはず。もちろん、純血種のほうが 人間にとって「より好ましい」からこそ価値が高いんだけれど、「どちらのゲノムがより自由なのか?」 を比べると、やっぱり雑種のほうが自由な分、ゲノムはしあわせなんだと思う。

動作は環境にアフォードされる

地面があって、重力があるから「歩く」という動作が生まれる。水があるから「泳ぐ」。

「どこかに行きたい」という意志、移動のための手足という道具、動作に制限を加える周囲の環境、 この3者の妥協の産物として「動作」が生まれる。

自由意志の進化というのは、環境から自由を獲得してきた歴史。

筋力を高める。二本足で歩く。道具を使う。衣装を身にまとって、環境の変化に対抗する。

人が進化して、意志が選べる選択肢が増えて。

意思の自由度は増していったけれど、あいかわらず手足は4本、目は2つ。 環境圧力が減少していく中で、相変わらずゲノムだけは変化が無くて、その存在感を増した。

物語の核心部分を独白させたり。日頃の主人公からは想像できない行動を取らせたり。 登場人物を「立場から自由にする」舞台装置として、しばしば「戦争」という 環境圧力が使われるのは何故だろうか?

たぶん、環境が平穏になって、登場人物の取りうる選択肢が無限に多様化すると、 判断の基準として使えるものが自分のゲノム、「立場」しかなくなってしまうからだ。

環境圧力が減って、個体が取れる選択肢が多様化すればするほど、「種としての柔軟さ」 は増すけれど、「個としての柔軟さ」は減少してしまう。目の前に無限の選択肢が提示されれば、 人間だってフレーム問題をおこす。「自分が背負った立場」が選んでくれる最適解以外の行動がとれなくなってしまう。

平和な村でも、「無礼講」を実現するためには「お祭り」の力が必要になる。 お祭りというのは、コミュニティの同調圧力を最大限に高める儀式。環境因子をあえて 強めることで、人々は日頃の立場から自由を取り戻して、自由意志を開放して、 次の1年を乗り切るパワーを貯める。

自由のこれから

  • ニューヨークでは中絶が合法化して貧困層の子供が減って、結果として犯罪件数が減少した
  • ネットが発達して、気にいらない人と飲みにいったり、嫌な人間のことを妥協しなくてもよくなった

世の中問題山積みだけれど、選択の幅が無限に近くなっていくなかで、 いろんなものが少しだけ「いい」方向に向かってる。 みんなが同じ「よさ」を望んで実現する世の中というのは、多くの人が 自由意志に従っているように見えて、ゲノムに割り振られた 役割を演じ続けているようにも見える。

積極的な受身の姿勢が流行るかもしれない。

ネットで発信して、演じつづけていると、過去の自分が現在の自分を縛る。 ネット世界は何だってありなのに、自分を規定する「立場」だけはどんどん その重みを増して、そこから外れた行動が出来なくなる。

情報が入ってくる。立場が意志を縛る。取れる選択肢は無限なのに、 過去の自分を裏切らないで、自分と自分につながった人との利益を最大にできる選択肢は、 たいていの場合一つだけ。限りなく自由なはずなのに、 不自由を自覚する。ネット世界で大きな力を持つ人ほど、自分を規定するゲノムの 存在が大きくて、その人の振る舞いは決定論的。

自由が進化すると、意志はもはや意味を持たない。決定は、 環境変化と、各人の背負っている「ゲノム」との相互作用が下す。

突然変異と、免疫系の実装が鍵になるんだろう。

みんなが決定論に従えば、世界は固まって滅ぶ。変化をもたらすのは、 みんなの相互作用が作る「環境」の変化。 環境に変更を迫るのは、過去の延長である意思なんかじゃなくて、誰かが生み出す突然変異。

属性は消費される対象になる。新しい属性を作る能力、 突然変異を生み出せることが環境の志向を決定する。ゲノムの突然変異はしばしばガン化するから、 変異の有効度を査定して、必要に応じて排除する免疫系必須。

ネット世界の先の先、「村社会2.0」というものは、きっと生物を模倣する。